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Article 48 : strange attractor - 想定外の帰結(後)

48-1 [NB ̄] 11(承前)


 私はアルバートが何を言っているのか、すぐには理解できなかった。

 詳しい事情を聴いて、やっと事態が飲み込めた。実験のデータがすべて、サーバーから消えているらしい。


「バックアップはどうしたの?」


 私の問いかけに、アルバートが首を横に振る。


「バックアップストレージからも消えていて、リカバリーできなかった。……もう、どこにもあの実験のデータは存在しない」


 理論そのものはアルバートの頭の中にあるから、論文の執筆に支障はない。けれど、実験データを添えられなければ、それはたんなる仮説という扱いになってしまう。

 ただでさえ、実験は一度しか成功していない。追試が不可能な状況において、データの消失は致命的だ。

 なにか記録はないのかと必死に考えた私は、エリザベート大公が実験の様子をスマホで撮影していたことを思い出した。実験開始からずっと撮影していたから、もしかしたら必要な画像を抽出できるかもしれない。

 私は、すぐにエリザベート大公に連絡をとった。


「ああ、あのときの動画ね。まだ消してないけど、どうかしたの?」

「論文に掲載する画像として、使わせていただけませんか」


 いいわよ、とエリザベート大公は即答した。私は安堵したが、彼女は、その代わりに、と条件を付けた。


「多重世界探査計画が成功して異世界への門が開いたら、他言も公表もしないでわたしだけに知らせる、というのでどうかしら」


 子どもじみた要求に笑いだしそうになったが、私はすぐに、その恐るべき意味に気づいた。エリザベート大公は、計画の最大の成果を独占するといっているのだ。


「研究成果は、発表してはならないと?」

「理論うんぬんは、学会だろうが雑誌だろうが、好きに発表すればいいわ。わたしが言っているのは、異世界とコンタクトする権利のことよ」


 たかだかスマホの動画と引き換えにするには、あきらかに過大な要求だ。

 どこまで本気なのか、わからない。もしかしたら、データの消失をかぎつけて、こちらの足元を見ているのだろうか。あるいは、データを消したのは彼女の仕業ではないだろうか。そんな邪推まで脳裏に渦巻いて、私は「ご冗談を」と返すのが精いっぱいだった。

 やがて、電話口から「さあどうかしら」という声がした。そして美麗にして冷酷な悪魔は、電話口でふふっと含み笑いをもらした。

 結局、私とアルバートは、その条件をのんだ。


 提供された動画の画質はよくなかったが、必要な画像を得ることができて、なんとか論文は完成した。

 マクシミリアンは審査を引き延ばそうとしたが、エリザベート大公の息がかかった博士が多数を占める審査委員会は、たいした審査もせずに論文を認め、アルバートは博士号を授与された。


「結局、記者会見にこぎつけたのは、所長選の立候補を締め切る寸前だったわ。私の望みは、完全ではなかったにせよ、あとわずかで成就する……はずだった。貴女があの質問をするまでは、ね」



48-2 [AK ̄] 44


 ボーア博士の話はそこで終わり、ゴンドラの中を沈黙が支配した。


 事件のほぼ全貌が、これで明らかになった。なのに、あたしの気持ちはまったく晴れなかった。


 あたしはきっと、この人からいろんなものを奪ったのだろう。ようやく手にしかかった成功も、もしかしたらこの人が居たかもしれない場所も。


 でも、それと同じくらいに、この人も、あたしから多くのものを奪った。あたしはもう、いままでのように無邪気に、この世界を見ることはできなくなった。それを喪失とは思いたくないけど、獲得だとも思えなかった。ただ、それをあたしにもたらした相手に対して、怒りとも嘆きともつかない、得体のしれない感情がどんどん湧いてくるのを感じた。


「ボーア博士」と、あたしは呼びかけた。自分でも、ずいぶん険のある声だと思った。

 ジョセフがおどろいたようにこちらを見たけれど、あたしはそのまま彼女に問いかけた。


「あなたにとって、物理学とは、なんだったんですか?」


 ボーア博士は、ひるんだ様子もなく口の端を上げて即答した。


「道具よ。地位や名誉を得るため、そして生きるためのね」


 あたしは、ずっと喉元にひっかかっていた小骨が、やっと嚥下できたような気がした。

 わかっていた。この人とは、ユークリッド空間に描かれた二本の線分のようなものなのだ、と。どこまでも並行し交わることがないか、一点で交わったのちは無限に乖離していくか、そのどちらかでしかない。

 それでもあたしは、たとえ無駄だとわかっていてもなお、この人に言葉を投げかけずにはいられないのだ。


「アルバートさんの理論は――いいえ、量子理論を含む物理学は、まだ世界の真理にたどりついていないんですよ。だから私たちは、それを都合のいい道具として利用することにばかり目を向けずに、真理を探究する歩みを進めるべきなんです。物理学が道具であるとすれば、それはいち個人の欲求を満たすためじゃなく、世界を理解し記述するためにのみ使われるべきだわ」


 きっと彼女は、あたしに反論する。

 でもそれは、あたしの主張を論破するためではなく、現実という圧倒的な質量で押しつぶすためだ。

 思ったとおり、ボーア博士の眼差しに、あからさまなあたしへの嫌悪の色が差した。


「甘っちょろい理想論なんて、私にはなんの価値もない。真理の探究に時間を費やしていたら、人生はあっというまに終わってしまう。意味もなく、得るものもなくね。それは虚しい時間の消費でしかない。人間が物理学に奉仕するのではなく、物理学の方が人間に貢献すべきなのよ」


 当然、あたしは言い返す。


「その傲慢さが、この事件の――この悲劇の原因だったということが、わからないんですか。物理学の(しもべ)であれとは言わないけど、もっと真摯に研究に取り組んでいれば、産業界の走狗に成り下がってしまうことも、なかったんじゃないんですか?」


 ボーア博士は、はっと鼻で嗤った。


「あなたが使っているスマホやパソコンはもちろん、この世界はすでに、量子力学の工学的な利用なくして成り立たないところまできているのよ。その成果だけは受け取っておいて、その過程を否定するなんて、ちょっと虫がよすぎるんじゃないの?」


 それは、どうしようもないほどの、正論だった。納得はできないけど、間違ってはいない。

 あたしが口を噤むと、ボーア博士の声のトーンも下がった。


「この世界には、あなたみたいな人が声高に叫ぶ偽善が満ちている。多くの者の献身や犠牲のうえに立っているのに、足元の死屍累々を見ようとせず、あるいは敗者というレッテルを貼って切り捨てる。私は、いつもそうやって見捨てられ、切り捨てられる側にいたわ。どこまで行っても、この世界は私に対して冷酷だった。それなら私は、この世界を欺いてでも成功者になるか……」


 話を続けながら、ボーア博士はジョセフにまなざしを向けた。


新しい世界(テルスノヴァ)を求めるしかないじゃない」


 ゴンドラは地上に帰還し、係員が扉を開けて下車を促した。

 ボーア博士が席から腰をあげると、いままで黙っていたジョセフが、「ニーナ」と呼びかけた。


「君はこの世界を……私たちの世界を、憎んでいたのかい?」


 ボーア博士は弾かれたように振り返り、なにかを言いかけて、けれど言葉を飲み込んだようだった。そして夕日に映える亜麻色の髪を揺らして背を向けると、ゴンドラを降りて人ごみのなかに消えていった。


 あたしも、そしてジョセフも、その背中を黙って見送った。

 そうするしかないと、あたしは思った。そしてきっと、ジョセフもそうなのだろうと。



 市街に向かうトラムは、混んでいた。

 あたしとジョセフは、立ったままで車窓を流れていくウィーンの街並みを眺めていた。

 この街では、いろんなことを経験した。いままでの人生で得てきた経験を束にしても、この数日間に及ばないのではないかと思うくらいに。

 まだ思い出だとはくくれないけれど、ボーア博士との会談で、大きな区切りがついたようには思う。


「これで終わり、なんですね」


 あたしがふっと漏らした感慨に、ジョセフはゆっくりと首を横にふった。


「いや、まだだよ。この事件の最後のピースは、まだ埋まっていない。そしてそれは、まちがいなくあそこにある」

「最後のピース……」


 ジョセフの言葉の意味を考えてみたけど、あたしにはそれがなんなのか、見当がつかなかった。


「わからないのなら、言い換えよう。アヤノの記事のきっかけになった、私からの指示はなんだった?」


 あ、とあたしは思わず声をあげそうになった。

 そうだ。そもそも、あれがスタートラインだった。そして、そのときのジョセフの指示は、まだ実行されていない。


「告発文を書いた人物と目的の特定……先生は、わかったんですか?」


 あたしの答えに、ジョセフはおおきくうなずいた。


「状況証拠だけだが、その人物と目的を特定するためには、じゅうぶんだよ。こうなれば、あとは本人から話を聞くだけだ」


 ジョセフはすでに答えにたどり着いている。この事件に関しては、あたしの方が持っている情報は圧倒的に多いのに……。

 ちょっと待ってください、とジョセフの口を封じておいて、あたしは考えた。


 トラムが三つ目の停留所に停まったときに、あたしはそれに気づいた。

 あの告発文で、だれがいちばん利益を得たのか。それを考えれば、答えは明白だった。

 そして、あたしが最後の取材に行くべき場所も……。

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