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Article 45 : fractal repetition - 繰り返される相似

45-1 [NB ̄] 08


 私は、本当の父親の顔を知らない。ものごころがつくまえに、NATO軍の空爆に巻き込まれて死んでしまったからだ。

 民族紛争に端を発した泥沼の内戦は、遺族になった母娘から安住の地を容赦なく奪った。もちろん、私たちだけが不幸だったわけではない。そんな人は、あそこにはあたりまえのようにいた。

 戦火を逃れるように難民キャンプを転々とする生活を嫌った母は、私を連れてニューヨークに渡り、そこに住む遠縁の男と再婚した。


 再婚といえば聞こえはいいが、母が身を寄せた男は売春ブローカーだった。

 ようするに、生きるために母は自ら「商品」になったのだった。私にルーシーというミドルネームをつけたのは、その男――親父だった。

 今にして思えば、難民キャンプでの暮らしも、ニューヨークでの暮らしも、たいして違いはなかったのかもしれない。けれど、すくなくとも、いつも銃声や爆音に怯えなくてよくなったことはありがたかった。けれど、それも最初のうちだけで、私はすぐに厳しい現実に直面することになった。

 慣れない街での危険な仕事で健康を害した母は、私が十五歳になった年に健康を害した。そして、マンハッタンに初雪が降った凍えるような夜、いつものように仕事に出掛けた母は帰ってこなかった。再会したのは、警察の遺体安置所だった。


 母が死ぬと、親父はすぐに私を「女」に、そして「商品」にした。

 ほんとうに嫌なことばかりの毎日だったが、いいこともあった。()と知り合ったのも、思えばその仕事のおかげだったのだから。


 市警の一斉摘発から逃れて、真冬のユニオンスクエアで行き倒れ寸前だった私を助けてくれたのが、彼だった。

 事情を話すと、彼は私を自宅に連れて行った。住めないことはないというレベルの、おんぼろなアパートの一室だった。

 部屋の半分を占めているベッドは、私が腰かけると軋みをあげた。


「ひどい部屋だろう?」


 彼の言葉は淡々としていて、こういう界隈に暮している人にありがちな、卑屈さがなかった。


「でも、ひとつだけ気に入っているところがあるんだ」


 そう言って、彼は窓のカーテンを開けた。そこにはイーストリバーが、銀色の水面を見せていた。


「食べ物を買ってくるから、君はすこし休むといい」


 そう言って部屋を出ていこうとする彼を、私は引きとめた。


「どうして私を助けてくれたの?」


 私の問いに、彼はすこし思案してから、ぽつりと告げた。


”Si quheni?”


 なつかしいアルバニア語で名前を尋ねられて、私は思わず「ニーナ」と答えていた。

 彼も名乗り、それからほんとうにうれしそうに笑った。

 ニューヨークで同胞と巡り合うことなんて、奇跡に近かった。だから私たちにとっては、それだけでじゅうぶんだった。

 私は、生まれて初めて、心地のいいベッドで眠ることができた。



 そのまま私は、彼の部屋で同棲をはじめた。

 彼は私と同じコソボからの難民で、ごみ拾いをしながら学校を出て、いまはニューススタンドで働いていた。

 ストリートガールとスタンド店員の共同生活は、その日ぐらしの貧しいものだった。薄いスープに浸した堅いパン一個が夕食という日も、しょっちゅうだった。

 私は貧乏を嘆いてよく愚痴を言ったが、彼はそうではなかった。


 ある日、彼は一冊の雑誌を私に差し出した。

「Nature」というタイトルの表紙をめくると、「Many-worlds interpretation」という文字が、目に飛び込んできた。


「ニーナはこのまえ、世界は狭くて閉ざされているって言ってたけど、そうでもないみたいだ」


 何が書いてあるのか、まったくわからなかった。

 ただ、Many-worldsという言葉が、世界はひとつだけではないという意味だということはわかった。


「世界ってのは、私たちが知っているよりもはるかに、広くて豊かなんだよ。このみすぼらしいちっぽけな場所が、世界のすべてじゃないんだ」


 彼の言葉で、私は目の前の風景が、どこまでも広がっていくのを感じた。その彼方にいくつもの別の世界がある。そんなイメージが、思い浮かんだ。


 窓を開けると、イーストリバーの上空に、満月が浮かんでいた。水面には、一直線に光の帯が伸びていた。それは、まるで月に届く梯子のようで……。

 彼と私は、寄り添いながら『ムーンリバー』を歌った。

 いつかあの川を越えて、広い世界を見に行こう。

 そう願いながら。



 けれど、そんなささやかな幸せは、長くは続かなかった。


 秋晴れの空が広がった日曜日の夕方、私たちはマンハッタンの南端にあるバッテリーパークに出かけることにした。

 夕陽に染まるアッパー・ニューヨークベイと、自由の女神像を眺めたくなったのだ。

 アパートのあるロウワー・イーストサイドからバッテリーパークまでは、地下鉄ならそれほど時間はかからない。けれど、二人分の運賃も持ち合わせていなかった私たちは、歩いて行くことにした。

 部屋を出たときは晴れていたのに、ウォール街に着くころには、濃い灰色の雨雲が空を覆い始めた。


 夕焼けなんて、見られそうもなかった。だから、そこで引き返すべきだったのだ。

 せっかくここまで来たのだからと、そのまま歩みを進めた私たちは、人気のない裏通りで四人の男に囲まれた。どれも見覚えのある顔だった。ブルックリンをねぐらにしている悪党で、私のように違法な仕事をしている者は、多かれ少なかれこいつらの世話になっている。要するに、アンダーグラウンドの便利屋だ。

 そのリーダー格の男が、顔をゆがませて笑った。


「ずいぶん探したぜ、ルーシー」


 その名前で呼ばれただけで、私は身震いがした。まちがいなく、私を連れ戻すために、親父が雇ったのだ。

 これから起きることは、容易に想像がついた。やつらの手にナイフや拳銃がないことが、唯一の救いだった。


「私は帰らない。親父には、そう伝えて」

「そんな話が通じる相手じゃねえことは、あんたがいちばんわかっているだろう。言うことをきかなきゃどんな目にあうか、知れたもんじゃねぇ」


 男の恐喝に怯えた私の様子から、彼は状況を的確につかんだようだ。男と私の間に割り込むと、落ち着いた声で「ニーナは帰らせない」と断った。

 彼の言葉を、男は鼻であしらった。


「お前に用はない。痛い目にあいたくなけりゃ、とっとと失せろ」


 言われたとおりに逃げてくれればよかったのに、彼はそうしなかった。彼はひとしきり男をにらみかえすと、私の手をとった。


「相手にすることはない。行こう、ニーナ」


 そうかい、とつぶやいた男は、いきなり彼に向けて拳を繰り出した。

 だが次の瞬間、地面に膝をついたのは、殴りかかった男の方だった。

 意外だったが、彼はけんか慣れしているようだった。顔を殴りにきた相手の懐に入り込むと、その下腹を痛打したのだ。続けて、足へのタックルで、二人目も倒した。

 けれどすぐに、彼は他の男たちに取り押さえられた。必死で抵抗しながら、彼は私に向かって叫んだ。


「逃げろ、ニーナ!」


 彼が時間稼ぎをしてくれていることは、わかっていた。だから、言われるまでもなく、逃げるべきだった。

 けれど。

 私は、その場を離れることはできなかった。

 警察を呼ぼうかとも思ったけど、私の身元がばれたら親父のところに送還されてしまう。そうなれば、なんのために彼ががんばってくれたのか、わからない。

 結局、私は最悪の決断をした。

 彼を殴りつけていた男に、背後から体当たりをしたのだ。


 意表を突かれた格好の男たちと、一時は乱闘になった。でもしょせんは多勢に無勢。ほどなく私も彼も散々に打ち据えられ、路上に崩れ落ちた。

 蹴られそして踏みつけられた手足は、しびれたように動かなかった。

 抵抗する体力も気力もなくなった私を、男たちはにやけた顔でかわるがわる犯した。


 やっぱり、と私は思った。やっぱりこうなるのか、と。


 私の人生は、常に暴力によって蹂躙されてきた。

 飛び交う銃弾に、降りそそぐ爆弾に、国家の名のもとに民衆を踏みつぶしていく軍用車に、民族の違いから敵になった隣人たちに、そして、私を欲望のはけ口としか見ない男たちに……。


 やがて、パトカーのサイレンが聞こえてきた。すでにたっぷりと愉しんだ男たちは、私を開放して闇に紛れた。

 私が彼を助け起こすのと同時に、近くにパトカーが停まった。

 彼は私に、「逃げよう」と耳打ちした。



 痛む足を引きずるように、私たちはただひたすら歩き続けた。


 私はいつだって被害者で、なのに救われることはなく、ただこうやって逃げることしかできなかった。

 逃げ続けなければ、いつか肉体的な、そして精神的な死が訪れる。

 そんな人生の相似形を、私はずっと繰り返してきた。そして、この先もきっと、こんなことを続けていくしかないのだろう。


 降りはじめた雨が、路面を濡らす。

 顔から流れ落ちるのは、雨粒なのか涙なのか、わからなかった。


 気がつくと、バッテリーパークにたどり着いていた。

 私たちは、雨に濡れたベンチに崩れ落ちるように、腰を下ろした。


 柵の向こうには、闇に飲み込まれたアッパー・ニューヨークベイが広がっていた。ちゃぷんたぷんと岸壁に当たる波の音が聞こえ、すこし生臭い潮の香りがした。

 振り返れば、フィナンシャル・ディストリクトのまばゆい摩天楼の群れが、壁のように立ちはだかっていた。

 光と闇の境界線上にあるここは、まぎれもなく世界の果てだった。


 会話もなく、時間だけが過ぎていった。

 やがて……。

 彼が、腕を持ち上げて、ゆっくりと指さした。


「あれ……」


 指の先を見やると、黒い雨の彼方に、ライトアップされた自由の女神像が、にじむように浮かびあがっていた。

 それは、とても小さく、そして、ひどく遠くて……。


「……いつか」


 私は、つぶやいた。


「いつか?」


 と、彼が聞き返した。

 私は、からっぽになった心に浮かんだ思いを、そのまま口にしていた。


「私たちはこんな闇の世界から抜け出して、あそこに……光の差す世界に行けるのかしら」


 彼は「ああ」と肯定した。


「絶対にそうするんだ。だから、どんなときも、どんなことがあっても、前だけを見て進んでいこう。そして、もし離ればなれになることがあっても……」


 私たちは、見つめ合い、口づけを交わし。

 そして、約束をした。


「この世界のどこか未来で、かならず会おう」

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