Article 38 : closed system - 閉ざされる未来(後)
38-1 [AK ̄] 36
マルガレーテさんから、会いたいという連絡があったのは、それからすぐのことだった。
あたしのスマホの番号をどうやって知ったのだろう。そんな疑問もあったけど、ベルナルドさんのことで大事な話がある、と言われれば気にしている場合ではなかった。
部屋にやってきたマルガレーテさんは、眼鏡の奥から冷たい碧眼であたしを見おろした。
着席を勧めたけど、マルガレーテさんは「それほど時間をかけるつもりはないわ」と首を横に振った。
「話に入る前に、私の身分を明らかにしておいた方がいいわね」
そう言って、彼女は名刺を差し出した。欧州議会議員という肩書とともに、マルガレーテ・フォン・ハイゼンベルクという名前があった。
ベルナルドさんと同姓を名乗るとなれば、やはり結婚をしているということだ。
もう痛みなんて感じないと思っていた胸が、それでもずきりと疼いた。
マルガレーテさんは、ハンドバッグを開いて数枚の写真を取り出すと、ベッドサイドのテーブルに散らした。
その写真を見て、あたしは血の気が引いた。
ドレスを着たあたしを、燕尾服のベルナルドさんが抱きしめている。ふたりの唇が触れあっているところまで、はっきりと写されていた。
そういえばあのとき、近くで人の気配がしていた。こういうことだったのか、と自分の軽率さを悔やんだけど、いまさらどうなるものでもない。
「ジュネーブで会ったときに、本気は許さないと言っておいたはずよね。ホント、困ったことをしてくれたものだわ。めずらしくベルナルドが頼ってきたから、あなたを留置所から救い出してあげたのに……」
不法入国者だったあたしが、いつの間にか欧州議会の関係者扱いになっていて、ウィーン警察が特別扱いをしてくれたのは、ベルナルドさんとこの人のおかげだったというわけか。
言いかけたお礼の言葉を、マルガレーテさんのため息がさえぎった。
「こういうの、あなたの国では、恩を仇で返されたって言うんでしょ」
やっぱりこれって、不倫ということになるのだろうか。きっとこれから、この人に糾弾され非難されるのだろう。あたしが悪いのだから、それは当然のことだ。でも……。なんだか、そんなだいそれたことをした実感が、ぜんぜんないんだけどな。
あたしは、フォーカスのボケた頭で、そんなことを考えていた。
「この写真、どこで手に入れたと思う?」
手厳しく責められると予想していたあたしは、マルガレーテさんの落ち着いた問いに拍子抜けがした。
けれど、いずれにせよ、あたしには答えられないことだ。
あたしが無言で首を振ると、マルガレーテさんはいまいましそうに唇をゆがめた。
「あなたのご同業さんが、CERN所長マクシミリアン・プランクに売りに行ったらしいのよ」
聞けばその記者は、この写真をネットに流すかCERNが買い取るかという「商談」を持ち掛けたらしい。ヨーロッパではパパラッチが撮影したセレブの写真は、本人の承諾がなければメディアにのせられない。写真の使い道は、最初から決まっていたのだろう。
プランク所長は、いったん写真を買い取って、それをハイゼンベルク家に転売したらしい。アルバート・シュレーディンガーとニーナ=ルーシー・ボーアの研究不正に関する内部告発の調査で、あたしとベルナルドさんが成果を出したこともあるので、この程度の公私混同には目をつぶると言いながら。
「あなたとベルナルドの関係が疑われるようなニュースが流れたあとで、こんなものがネットに流れればどうなるか。あなたも叩かれるでしょうけど、ベルナルドの立場もなくなるわ。だから、取引に応じるしかなかった。ずいぶんふっかけられたし、今回のことでプランク所長に大きな借りを作ってしまった。CERNの動向を見張り牽制するはずのベルナルドがこのていたらくでは、あそこにいる意味がない。親族会議の結果、ベルナルドはフランクフルトに連れ戻すことになったわ」
あたしの胸に残っていた、最後のぬくもりが凍えて消えた。
まるで、ドナウ川の畔で氷雨に打たれていたときのように、あたしは身体も心も冷え切っていくのを感じていた。
いったい何人の人生を、あたしは狂わせてしまったのだろう。
アルバートさんを死に追いやり、泉美さんを悲しみのどん底に突き落とし、ジョセフの名声を汚し、ベルナルドさんの希望も砕かれようとしている。そんなことを望んでいたわけじゃないのに。そんなことのために、頑張ったんじゃないのに。
あたしがもたらす不幸の総量は、どれほどあるというのか。
マルガレーテさんの言葉は続く。
あたしは、うなだれたままでその言葉を聞いていた。
「まあ、一線を超えなかったのは賢明だったけど。あなた、若いのによく我慢したわね。そこは褒めてあげるわ。だから、今までのことはすべて不問にしてあげる。ただし今後は、ベルナルドと会うことも連絡を取り合うことも、いっさい許しません。もしこの言いつけを守らなかったら、あなただけでなくベルナルドにもそれなりのペナルティがあると思ってね」
もう、返事をすることも、マルガレーテさんの顔を見ることもできなかった。
「いいわね」という言葉が、あたしの耳に刺さった。
「はい」という言葉をなんとか絞り出して、あたしはわずかに頭を下げた。
「ああ、そうそう。念のために言っておくけど、ハイゼンベルク家を甘く見ないでね。私たちの手が届かないところは、この地上にはないわ。ふたりでどこかに逃げるなんてことは、絶対にできないわよ。悪いことは言わないから、ジョセフ・クロンカイトが来たらニューヨークに連れて帰ってもらいなさい」
写真をテーブルに残したまま、マルガレーテさんは部屋を出て行った。
ドアの閉まる音が、あたしを世界から締め出すように、冷たく響いた。
マルガレーテさんが帰ったあと、なにをしていたのかよくわからなかった。
一昨夜は留置所で、昨夜は警察の会議室で、二晩をほとんど寝ずにすごしたことも手伝って、服のままベッドに横たわって夢うつつだったように思う。
眠りに落ちようとするとアルバートさんや泉美さんの姿や言葉がよみがえり、目が醒めると後悔と自責の念にさいなまれる。そんなことをくりかえしていた。
トイレに立って、のどの渇きをおぼえて水を飲んだ。とたんに、お腹の虫が鳴った。
こんなときにも、あたしの身体はぬけぬけと生命活動を維持している。つくづく冷淡で身勝手な人間なのだと思った。
時計を見ると、深夜の二時をまわっていた。どのみち、食事にありつける時刻じゃない。あたしは水をもう一杯飲んで、再びベッドに横たわった。
目が冴えて、もう眠りにはつけそうもなかった。
スマホの着信を知らせるLEDが点滅しているけど、チェックする気力は湧かなかった。
おそらくジョセフだろう。もしかしたら、ベルナルドさんかもしれない。
二人とも、あたしを責めることはしないだろう。むしろ、ここまで状況が悪くなっても、こうなったのは君のせいじゃないから気にするなと、なぐさめようとするにちがいない。そういう人たちだ。
なのに、あたしは……。
なにに対してかわからないけど、無性に怒りが込み上げてきた。
あたしは上体を起こして、手に触れたものを壁に投げつけた。ぼふんと音がして、そのままシーツの上に落ちた。枕だった。
あたしは拳を固めて、枕に振り下ろした。手ごたえはなかった。それが怒りに拍車をかけて、あたしは枕を殴り続けた。
「どうして……どうして……」
うわごとのように、同じ言葉が、くりかえし口からあふれ出た。涙がとめどなくこぼれ落ちる。
でも、いくら殴りつけても、枕はすました顔をしてそこにいた。
それはまるで、昨日までの、なにも知らないあたしのようで。
ふと鏡を見る。そこには、ひどく無様なあたしがいて……。
ああ、そうか。
ようやくあたしは、押さえようのないこの怒りが、あたし自身に向いていることを悟った。
おまえが……。
鏡を見ながら、平手で自分の頬を殴る。顔と掌の両方が、じんと痛んだ。でも、そんなものでは足りなかった。
拳を固めて、あたしの顔が映った鏡を殴りつける。
さっきとは比べものにならないほどの痛みがあった。それでやっと、正当な罰が当たったような気がした。
おまえが悪いんだ。全部、ぜんぶ。
泉美さんが言った通りだ。
この世界に、あたしがいることが、許せない……。
両手の拳を、そして額を、鏡に打ちつける。
なんども、なんども、くりかえし。
あたしは、あたし自身に、当たり散らした。
そのうち、すこしずつ痛みを感じなくなっていった。
そして、あたしは……。
いきなり、強い力で背後に引き戻された。
ベッドに仰向けになったあたしの胸に、だれかが覆いかぶさってきた。
「やめて。放してっ」
かすれた声で叫んだ。
けれど、抵抗は無駄だった。柔道の寝技のように、がっちりと押さえ込まれていた。
「いやっ……いやだぁ」
あたしは泣きじゃくりながら、その人のやわらかな背中を何度も拳で打った。
その人は、なにも言わずに、あたしのするがままになっていた。
やがて。
精も魂も尽きて、あたしの腕がだらしなくベッドに落ちる。
それを待っていたように、その人の口の端がわずかに上がった。その唇が、すすり泣くあたしの唇に重ねられる。そしてブラウスのボタンに指がかかり……。
もう、なにもかもが、どうでもよかった。
この人がこれからすることが、あたしへの罰だというのなら、それでいい。
からっぽになったあたしの身体と心は、その人のなすがままに、すべてを受け入れた。




