Article 36 : freezing point - 彼女たちの氷点
36-1 [AK ̄] 34
スクルドからの電話を切ったあと、あたしはすぐにジョセフに連絡を取り、その足でウィーン警察に出向いた。
釈放されてここを後にしてから、まだ半日も経っていない。まさかまたここに来るとは思わなかったから、なんだか懐かしいような妙な感慨があった。
窓口にいたのは、あたしの事情聴取をした女性の警察官だった。
彼女は、なにをしにきたのだ、と言わんばかりの怪訝な目をあたしに向けた。
CNNの記者証を見せて、アルバート・シュレーディンガーの死亡に関する情報の提供を依頼すると、彼女はやれやれという顔つきで事務的に答えた。
「個人のプライバシーにかかわる問題なので、公式なブリーフィングを待ってください」
通された会議室には、まだ誰もいなかった。
室内は、ひどく寒々しく見えた。蛍光灯の青白い照明、テーブルにパイプ椅子。そういった無機質なものたちに囲まれていると、あたしの鼓動や呼吸という生命活動が、むしろ異質なもののように思えた。
いちばん前の席につこうとしたけど、その場所にはどうしても腰をおろせなかった。あたしは踵を返して、いちばん後ろの端の席に座った。
深夜が未明に変わるころ、会議室には多くの記者がつめかけてきた。そして、やっと公式ブリーフィングが始まった。
配布されたペーパーには、事実関係のごく簡易な記述があるだけだった。
『アルバート・シュレーディンガー』という氏名の記載のあとに、年齢と住所、そして、溺死をあらわすドイツ語が書かれていた。死亡推定時刻は、あたしと話をした数時間後だった。血中から大量のアルコールが検出されていて、着衣の乱れや争った跡もないということで、事故死と断定されていた。
「そうか……。アヤノ、わかっているだろうが、君にはなんの責任もない。警察の発表は、厳正な事実だ。どのような忖度もなされる余地はない。ようするに、アルバート・シュレーディンガーの死因は、泥酔による事故だったということだ。仮に、彼の度を過ぎた飲酒が一連の報道のせいだとしても、それは私を含むマスコミ全体で追うべき責任だ。あとは私が引き継ぐから、アヤノはすぐにジュネーブに戻って、帰国のための手続きをはじめなさい」
電話口のジョセフは、めずらしく饒舌だった。
あたしは、ただ「はい」とだけ答えて、電話を切った。
悲しみとか後悔とか、そんな感情はなかった。あたしの心は、なにも感じなくなっていた。自分がひどく酷薄な人間に思われて、寒気で身体が震えた。
ホテルの部屋に戻ったときには、もう朝になっていた。
滞在期間があるうちは、ウィーンで取材を続けるつもりだったけど、こうなった以上はジョセフの指示に従うべきだろう。
ただその前に、あたしにはやっておかなければならないことがあった。
ホテルのフローリストが開店するのを待って、あたしは花束を買った。それからトラムを乗り継いで、ドナウ川の畔にある小さな公園に行った。
夏は水浴び場になるという岸辺で、アルバートさんの遺体はみつかった。
灰色のドナウ川の対岸にそびえるドナウシティ・タワー1が、黒くて巨大な墓石を思わせた。もしかしたら三途の川ってこんなところなのかもしれないと、あたしは埒もないことを考えていた。
小粒の氷雨が、あたしの髪とコートを濡らせた。
モノクロームの風景に埋没していた、キャメル色のコートを着た女性が、あたしの足音に気づいたように立ち上がった。
そして、ゆっくりとこちらを向く。
予感はあった。
否、むしろあたしは、こうなることを願っていたのかもしれない。
「……泉美さん」
あたしの言葉に、彼女はなにも答えを返さなかった。
ぬくもりを失った世界に、ただ時間だけが流れた。
氷雨が、やがてみぞれに変わった。
「あたし……」
意を決して、謝罪を口にしようとしたあたしは、泉美さんのうすい唇が動くのを見て、言葉を飲み込んだ。
「なにも言わないで。……アルバートは事故死だった。犯した罪の報いを受けたのね。彼の死に、あなたはなんの責任もないのだから、謝罪の言葉なんていらないのよ……」
台本を音読するような声で、泉美さんは言葉を続けた。
「それより、ねえ。もし同情してくれているのなら、私を助けてよ」
泉美さんは、あたしの目の前で左の掌を開いて見せた。その薬指には、シルバーのマリッジリングがあった。
「三か月。それが、私たちが夫婦として過ごした時間なの。兄と妹のように育った十年、それぞれの人生をひとりで生きた三年、そしてやっと結ばれたのに……。たったの三か月よ。短い、ほんとうに短い時間だわ。なのに、私はそのわずかな時間の重さに、押しつぶされそうなの。だからね、あなたに助けてほしいのよ」
結婚どころか、まともな恋愛もしたことのないあたしには、泉美さんの言葉を実感することなんてできなかった。
ただ、そう頼まれれば、返事は決まっている。
「あたしにできることなら、なんでもします。そんなことで、罪滅ぼしになるはずもないけれど……」
そう、とつぶやいて、泉美さんは満足そうに白い頬に笑みを張りつかせた。
「よかった。あなたなら、そう言ってくれると思ったわ。それなら……返して」
「え?」
「返して、私のアルバート兄さんを」
謝罪することしか考えていなかったあたしは、泉美さんの言葉に意表を突かれて、なにも答えられなかった。
「どうしたの? なんでもしてくれるんでしょ。だったら、彼を返してよ。そうしてくれれば、みんな助かるのよ。彼も、私も、そしてあなたも」
目を伏せて、なにかをこらえるようにして……けれど、それを果たせずに、泉美さんは顔をあげた。
あたしの手から花束が奪い取られ、次の瞬間、左の頬にちいさな痛みが走った。
カサブランカの花弁が地面に落ち、白いカーネーションのがその周囲に飛び散った。
「返してよ……返してよ」
そう繰り返しながら、泉美さんは、花束であたしを打ち続けた。
花びらがすべて飛び散ると、泉美さんは「助けてよっ」と哀願しながら膝を折った。
差し出したあたしの右手は、泉美さんの左手で打ち払われた。マリッジリングが当たった指先に、鈍い痛みが走った。
泉美さんの唇が、小刻みに震えながら、白い息とともに言葉を吐き出す。
「アルバート兄さんは、もうこの世界のどこにもいない。なのに……」
あたしを見上げる泉美さんの瞳は、深い悲しみの色をたたえていた。
絞り出すような言葉が、泉美さんの口からもれだした。
「あなたがこの世界にいることが、許せないの」
この期におよんでもまだ、悲しいという感情はわかなかった。なのにどうしてか、涙がこぼれた。かじかんで凍てついた頬に、それはとても熱く感じられた。
泉美さんは、顔を手で覆って、嗚咽をもらした。
「あなたの涙なんて、見たくない。あなたの言葉なんて、聞きたくない。私は、あなたへの憎しみだけを糧にして、これから生きていくの。だって、そうするしか、ないじゃない……」
みぞれの冷たさをともなって、泉美さんの言葉はあたしの心に深くしみこんだ。
あたしは、深く頭を下げて……。
その氷点に背を向けた。




