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Article 35 : fall in gravity - 抗いがたい重力(後)

35-1 [AK ̄] 32


 ベルナルドさんのキスは、完全な不意打ちだった。

 胸の鼓動が、どんどん強く、そして早くなる。

 頬が上気しているのが、自分でもわかった。


 けれど彼の告白は、期待も予想もしていなかったと言えば、うそになるだろう。

 だからあたしは、ずっと聞きたかった問いを投げかけた。


「ベルナルドさんは……」

「なんだい?」

「どうして、量子重力理論の研究をしているんですか」


 そうだね、とベルナルドさんは答えて、ひとしきり沈思した。


「その問いに答えるまえに、ぼくの立場を知っておいてもらうべきだろう。ぼくはね、CERNにおけるハイゼンベルク家の走狗なんだよ」


 ベルナルドさんは、たしかに走狗と言った。意外な言葉に、あたしのなかに溜まっていた熱がすっと引いた。

 そして、当然のように、疑問がつぎつぎにわき起こる。それをうまく言葉にできず、あたしは黙ったままで彼の次の言葉を待つことになった。


「アヤノも知っているだろうけど、産学――つまり産業の世界と学問の世界は、密接な関係をもっている。それ自体は悪いことではないけど、軍需産業がCERNのような素粒子を扱う研究所と結びつくと、第二のノーベルやオッペンハイマーを生み出しかねない危惧がある。だから、政治による監視が必要になるんだ」


 そこでベルナルドさんは、一息をついた。

 ここからが大事なところだ、と言われているような気がして、あたしは小さくうなずいて、先をうながした。


「ぼくの実家であるハイゼンベルク家は、その初代からずっと、ヨーロッパの政界に深い関りを持ってきた家なんだ。そしてCERNの創設にも関与していてね。その影響力で、産学の癒着や暴走をくいとめることに腐心してきた。その手先のひとりが、ぼくというわけだ」


 あたしのなかで、いままで喉にささった小骨のようだった疑問が、すっと解消した。地味なテーマを扱っている、しかもまだ若いベルナルドさんが、なぜCERNでそれなりの地位にいるのか。その答えとして、それはじゅうぶんなものだった。


「だから、量子重力理論なんですね」


 あたしの言葉に、ベルナルドさんは嬉しそうにうなずいた。


「ぼくはね、若いころにやらかした過ちのせいで、いまでも実家からマークされていてね、自分の思いどおりに生きることはできないんだ。それは研究テーマも同じで、実利に結びつくようなものは許されない。それこそ、経済界に利用されかねないからね」


 ベルナルドさんは、そう言いながら、闇のむこうにまなざしを向けた。


「でも、ぼくだって物理学者のはしくれだ。創造神がこの世界を、どんなふうに設計したのかを知りたい。量子重力理論は、産業界をよろこばせるような成果には縁遠い研究テーマだけど、ミクロとマクロの世界を統合しうる最善の理論だと思っている」


 その答えは、あたしがCERNではじめてこの人に会ったときに漠然と感じていたこと――それは、そうであればいいな、という願望にちかいものだったけれど、それを満足させてくれるものだった。

 ベルナルドさんの言葉は続く。あたしの期待したとおりの言葉が。


「『成功という理想は、そろそろ奉仕という理想に取って替わられてしかるべき時だ』というアインシュタインの言葉は、ほんとうにその通りだと思うよ。そしてそれは、ぼくのような人間がなすべきことだと思っているんだ」


 確固とした自信を持って、けれどどこか自嘲するように。ベルナルドさんはそう言って、頬をわずかにゆるめた。

 彼の言葉よりも、孤独をまとったその微笑みが、あたしの胸を震えさせた。この人をささえてあげられるのは、あたしなのかもしれない。そう思った。


 けれど、あたしのなかに、醒めた部分もあった。


 もし、ここでベルナルドさんの誘いに応じれば、あたしの人生は大きく変わることになる。それは、この数年間の努力と積み上げてきたキャリアを、投げ出せと言われているようなものだ。

 それに……。

 このひとの隣には、あたしの居場所はないのだ。そこは、あの女性――マルガレーテさんの場所なのだから。あたしは学問のパートナーという立場を、超えることはできないのだ。

 どちらにせよ、そうかんたんに「イエス」と言えるはずがない。


 そうなのだ。どうするべきなのかなんて、はなから決まっている。

 なのに、あたしは、どうしたいのか決められなかった。いままでその二つは、いっときは対立するものであっても、すぐに協調させられるものだった。

 なのに……。


 返事ができないあたしを、ベルナルドさんは静かに待っている。

 あたしは、この人に、どう応えればいいのだろう。



35-2 [AS ̄] 09


 観光船が通り過ぎたドナウ川の流れは、うねりながら乱れていた。

 川面を漂う渦巻は、まるで『ヘラクレスの柱』に落ち込む重力が描く、螺旋模様のようだ。


 エヴェレットの多世界解釈を検証した、あの実験。

 僕たちはたしかに、多重世界のひとつを目撃した。


 だがそれは、相対的に考えることもできる。

 僕たちがあちらの世界に接続したのと同時に、あちらも僕たちの世界に接続したのだ。そして、あちら側の世界にも僕がいて、こちら側を多重世界のひとつとして観測していた可能性もある。


 そうだ。そうに違いない。

 あの実験の瞬間、観測者たる僕たちも実験の結果も、量子化されていたのだ。そして僕たちは、実験の失敗が観測された世界に、送り込まれたのだ。


 ならば、あの渦――ワームホールの向こうには、多重世界が存在する。そして、もう一人の僕がそこにいる。

 僕は、あちら側の僕に呼びかける。


「なあ、アルバート・シュレーディンガー。そっちの世界では、実験は成功したんだろう? おまえは、相応の地位や財産を手に入れたんだろう?」


 返事はない。

 それはそうだ。すでにあの世界とは、物理的に切り離されてしまっているのだから。

 もう一度だけでいい。あの世界と接続させてくれ。この身をそこに置き、ちがった世界を、未来を見てみたいのだ。


 思えばそれは、ニーナの望みだった。

 今なら、僕にもわかる。

 ニーナはきっと、違う可能性を、違う人生を生きたかったのだ。

 僕だって、エリザベート・アセット・マネジメントに見捨てられた以上、この世界で生きていくことは難しいだろう。身の破滅にイズミを巻き込むのは間違いない。


 ドナウの川面が、実験室のモニター画面と重なる。

 事象の地平線を描く、ワームホールがどんどん大きくなっていく。


「時空歪、シュヴァルツシルド限界を突破。多重世界アリス露出。物理接続に成功……」


 僕は、そう呟いていた。

 多重世界への架け橋――アインシュタイン=ローゼン・ブリッジが、いま架かった。


 僕は手を伸ばす。

 けれど、ワームホールはどんどん小さく、遠くなっていく。

 いくら手を伸ばしても、届かない。

 待ってくれ。


「露出減退。時空歪、反転……」


 だめだ、消えないでくれ。

 今度こそ、僕は……。


 精いっぱい身体を乗り出した瞬間、重力ベクトルが反転した。


 あっ、と僕は声を上げそうになった。

 それからゆっくりと、僕の身体は事象の地平線に墜ちこんでいった。

 いや、墜ちているのではない。相対的には、上下などないのだから。


 そうとも。

 アインシュタイン、やはりあなたは正しかった。

 重力と加速度は、ほんとうに等価だ。

 僕の身体は、どんどん速度を増していく。あの世界へ、別の世界へ。


 最愛の人の顔が、目に浮かぶ。


 イズミ、ごめん。

 でも、僕は……。


 この重力に、抗えない。



35-4 [AK ̄] 33


「少し、時間をください」


 あたしはそう答えて、その直後に激しい後悔が押し寄せた。時間をかけて、そしてどうするというのか。

 オーケイ、とベルナルドさんは微笑んだ。


「アインシュタインは『大事なことは、自問自答しつづけることだ』と言った。だから慌てなくていい。僕はいつまでも待っている」

「わがままを言って、ごめんなさい」

「アヤノ。謙虚さは美徳だけれど、ここは謝る場面ではないよ」


 そう告げたベルナルドさんは、もうすこし踊ろう、とあたしを誘った。


「ぼくの足を踏まなくなるまで、君を帰さないよ」


 はい、とあたしは答えた。

 いまはこの人の寛容に甘えさせてもらおう。そして今夜は、このまま朝まで……。そう思ったときだった。

 スマホが震えて、スクルドからの着信を知らせた。


「大変なことが起きたわ。いま、どこにいるの?」

「えっと、あの……」

「ふうん、まあいいけど。のんきに男と遊んでいる場合じゃないわよ。アルバート・シュレーディンガーが……」


 スクルドが続けた一言は、あたしの重力のベクトルを、一瞬でひっくり返した。


「亡くなったわ」

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