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Article 33 : fall in gravity - 抗いがたい重力(前)

33-1 [AK ̄] 30


 シュレーディンガー博士と別れたあと、あたしはホテルに戻った。

 ひどく疲れていて、自分でもわかるぐらいに足取りは重かった。

 明確な憎しみを、感情的でなく冷静な言葉で向けられたことが、やはり精神的にこたえていた。


 早めにシャワーを浴びてベッドに入ろうと思ったら、ベルナルドさんからの呼び出しがあった。


「明日、CERNに戻ることになったんだ。だから今夜、すこしつきあってくれないか」


 どうしようかと迷ったけれど、ベルナルドさんにもきちんと謝っておかなければならないと思って、あたしは承諾した。



 ベルナルドさんは、あたしをシュタットパークの小川に面したレストランに連れて行った。

 ウィーンのカフェやレストランはゴージャスな雰囲気のお店が多いけど、このレストランはモダンでシンプルなインテリアだった。

 ほぼ満席にちかい客がいたけど、店内は静かに落ち着いていて、会話の声と食器の触れ合う音との合間から、モーツァルトのディベルティメントが聞こえていた。


 ワインのグラスを合わせ、サーブされたアミューズを口に運ぶ。

 自家農場の野菜や乳製品が、素材の味をそのまま感じさせられるように調理され、見た目も華やかに盛りつけられていた。

 ビーフコンソメに続いて、スズキのムニエルと、かぼちゃを練りこんだライ麦のパンが供される。どれもこれも、ため息が出るほどおいしい料理だ。

 仔牛のすね肉の煮込みをひとくち食べて、あたしはあらためて今回のことを謝罪した。


「アヤノのせいじゃないよ」


 ベルナルドさんは、やはりあたしを責めなかった。

 けれど、ベルナルドさんとシュレーディンガー博士との交渉の成果を、あたしがだいなしにしたことにはかわりはないと思う。すくなくとも、あたしの勇み足がなければ――それはジョセフも気にかけていたことだけど、ベルナルドさんたちも準備をする時間がとれたはずだ。

 そして、いまさらのように、シュレーディンガー博士との会話が思い出される。

 憎まれて当然のことだ。今回のことで名前が出てしまったあたしは――それが目的ではなかったけれど、業界から少なからず注目されることになるだろう。でも、それはあたし自身の努力の成果というよりも、たまたま手に入った情報によるものだし、結果としてシュレーディンガー博士や泉美さんの人生を踏み台にして得たものだ。

 あたしは赤ワインをあおった。お酒も料理もおいしかったけれど、口には後味の悪さが残った。

 コースはデザートに進み、バニラアイスとイチゴのシャーベットが添えられたクリスピークレープが、テーブルに置かれた。

 見た目も華やかで、お腹はくちた。

 けれど……。


「やはり、気にしているのかい、アヤノ」


 ベルナルドさんには、見透かされていたようだ。

 はい、と言ってうなずくと、彼は、それなら、とあたしの耳元にささやいた。


「なにもかも、忘れさせてあげるよ」



33-2 [AS ̄] 08


 気がつくと、僕はドナウ川にかかる橋の上に立っていた。

 足元がふらふらと覚束ない。飲みすぎた安酒に、ひどく酔ったらしい。


 街の灯を映す水面を、観光客を満載したクルーズ船がすべるように進んでいく。早春の夜風は遠慮なく僕の体温を奪い、歯の根が合わなくなってきた。


 もうCERNには戻れないだろうと考えた僕は、他所で研究を続けるための援助を彼女(・・)――エリザベート・アセット・マネジメントのオーナー、エリザベート四世・ノエル・エンデに申し込んだ。

 彼女は僕の研究を高く評価してくれていたから、面談の結果には期待していた。

 だが。


「そもそも量子コンピュータには動作原理に不可解な部分が多いのに、理論にほころびが見つかって、『オラトリオ』の信頼性は大きく損なわれた。未納分の契約はすべて解除されたし、納品済みの企業からは損害賠償まで請求されている。もはや、このプロジェクトは完全に失敗したと言っていい。そんな事業への追加投資なんて、ありえないよ。それに、もともと量子コンピュータなんて……」


 ノエルの整いすぎた顔を彩る二色の宝石のような瞳が、閉じられた瞼の向こうに消える。


「どうでもよかったんだよ、わたしにはね」


 画期的な性能の量子コンピュータによって、ナノテック・エレクトロニクス社の業績を押し上げ、株価を高騰させる。そして株主として莫大なキャピタルゲインを得る。それがノエルの目論見だったはずだ。

 少なくとも、僕はそう聞いているし、実際の彼女の行動もそれを裏付けるものだった。なのに、今の言葉はいったいどういうことなのだろう。


「それなら、あなたの目的は、いったい何なんですか」


 僕の問いかけに、ノエルはふっと短いため息をついた。


「多重世界だよ。『テルスノヴァ・プロジェクト』が成功すれば、CP対称性の破れから予想される反物質の世界に手が届くかもしれない。もし反物質が手に入ったら、この世界でのパワーバランスは確実に変わる。NPUは多重世界への扉を開く鍵かもしれない、そう思ったんだけどね。やっぱり人間の短い手では、ToE――神の方程式には届かなかったんだね」


 この世のものならざる、美しく、そして恐ろしい女性。ノエルの言葉は、僕の希望のすべてを打ち砕いた。


「そうそう、知ってた? あなたたちが実験装置につけた名前『ヘラクレスの柱』だけどね、世界の果てを示すその柱には、こんな警句が刻まれているんだよ。Non Puls Ultra――この先はない、ってね。『NPU』に『ヘラクレスの柱』、ずいぶん皮肉な名前をつけたものだね」



33-3 [AK ̄] 31


 シャンデリアの淡い光が、とても熱く感じられた。

 はずむ息、ほてった身体。汗の雫が、首筋から背中を伝う。

 あたしの背中に触れるベルナルドさんの手も、かすかに汗ばんでいるようだった。目をあげると、息がかかるほど近くに彼の顔があった。

 あたしの胸が、どくんどくんと鼓動を打っている。聞かれているんじゃないかと、すこし恥ずかしくなる。

 それは、夢のような出来事だった。


 ベルナルドさんの誘いに最初は戸惑ったけれど、あたしは覚悟を決めて応じた。

 まさかここで、こんな経験をすることになるとは、思いもしなかった。でも、たしかに、なにもかも忘れることができた。


「はじめてにしては、上手だったよ」


 そんなベルナルドさんの言葉が、すこし憎らしかった。

 いままでに、いったい何人の女性に、同じことをささやいてきたんだろう。悔しいくらいに、彼のエスコートは洗練されていて、そして手馴れていた。

 彼が、再びあたしの手をとる。

 その意味を察したあたしは、息を整えて彼の胸に寄り添う。


「さあ、もう一回」


 ベルナルドさんの言葉に応じるかのように、ホールに「アレス・ヴァルツァー」の声が響き渡った。


 オーケストラが、『眠りの森の美女』のワルツを奏でる。

 ステップを踏むたびに、あたしの淡い水色のボールガウンの裾と彼の黒い燕尾服が、絡まりあう。

 シャンデリアの下がった天井が、豪華な装飾が施された壁が、視界のなかでくるくると入れ替わる。

 それは、煌びやかな音楽とダンスの饗宴だ。

 となりで踊るカップルに気を取られたら、ステップを間違えてしまった。彼の足を踏みつけたのは、もう何回目だろう。

 ワルツが終わり、あたしはスカートをつまんで、カーテシーをした。


 少し歩こうかと誘われてホールを出る。あたりはすっかり宵闇に閉ざされていた。

 ドレスと燕尾服では、歩きにくいことこの上なかったけれど、ふたつの足音は同じテンポを刻んでいた。


「アヤノ」


 不意に名前を呼ばれた。

 歩みを止めて、あたしはベルナルドさんに顔を向ける。


 つぎの瞬間には、彼の腕に抱きとめられていた。

 背の高いベルナルドさんは、あたしの目を見下ろすかたちになっていたけど、そのまなざしは同じ高さのもののように感じた。

 その顔が近づいてきて……。

 あたしの唇を、あたたかで柔らかな、彼の唇がふさいだ。


 傷心につけこんで、こんなことをするなんて、ずるいひとだ。

 でも。

 ふれあったぬくもりは、縮こまっていたあたしの心と身体を、やさしく溶かしてくれた。

 近くに人の気配がしたけど、そんなことは気にしていられなかった。

 唇がそっと離れ、耳元で彼の優しい声がささやいた。


「ジャーナリストがアヤノに相応しい仕事だとは思えない。君は、科学の世界にいるべきひとだよ。だから大学を卒業したら、CERNに、いや僕のところに来てくれないか」

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