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Article 28 : doubly-charmed baryon - ふたつのチャーム(前)

28-1 [AK ̄] 24


 ベートーヴェンガングは、ウィーンの森を流れるシュライバーバッハ川に沿った小径だった。

 バッハというのはもともと「小川」という意味のドイツ語だけれど、川底まで石で舗装されたその流れは、ひいきめに見ても道路の側溝のようだった。

 ベートーヴェンの傷心をいやし、「田園」交響曲のインスピレーションを与えた場所ということで、ちょっと期待しすぎていたかもしれない。

 そんなふうに自分を納得させようとしたとき、泉美さんがあたしの顔を見て、ふふっと含み笑いをした。


「がっかりした?」

「……ええ、すこし」

「そうでしょ。わかる、わかる。でもね、耳を澄ませてみて。第二楽章、アンダンテ・モルト・モッソよ。ほら、風の音や鳥の声や小川のせせらぎが、音楽に聞こえるでしょう?」


 言われたとおりにしてみたけれど、そんなふうには思えなかった。

 否とも応とも返事をしないあたしを気にかける様子もなく、泉美さんはワルツのステップを踏むように、木漏れ日が踊る小路に足を進めた。


 ウィーンの森といっても、このあたりは森林というより、木立の中にお屋敷が点在する高級住宅街だった。

 泉美さんがご両親と暮らしていた家が、この近くにあったのだという。


「いまはウィーン大学の近くのアパートに住んでるから、久しぶりにここに来てみたかったの」


 そう言って泉美さんは目を細めた。


「どこに行こうかしら。はじめて来たのなら、やはり『遺書の家』よね。そうだ、カーレンベルクに登りましょうか。あそこからなら……」


 出会ってからずっと、泉美さんはこんな調子だった。このままでは、ほんとうにお散歩をして、それで終わってしまうかもしれない。

 あたしは、用件を切り出すことにした。


「今日はお時間をとってくださって、ありがとうございます。ご迷惑だと思いますけど、よかったらシュレーディンガー博士のことを、教えてくださいませんか」


 泉美さんはふわりふわりと歩きながら、そうねえ、とつぶやいた。


「それは、物理学者としての興味かしら。それとも、ジャーナリストとして?」

「……両方です、たぶん」


 前を向いたまま泉美さんは、ふうん、と言って後ろ手を組んだ。

 これはたぶん断られるな、とあたしは思った。そうなれば、無理強いをするつもりはなかった。

 でも泉美さんは、あたしを振り返ると、いいわよ、と微笑んだ。


「彼の苗字の『シュレーディンガー』はね、ドイツ語で「仕立屋」のことなの。ドイツの苗字には、そういうふうに職業を現したものが多いのよ」

「あ、それ、聞いたことがあります。ミュラーは粉屋、フィッシャーは漁師とかですよね」

「そうよ、よく知ってるのね。もともと、シュレーディンガーという言葉は、『切り刻む者』という意味でね、彼はそちらの方が気に入っていたわ。調査したり分析したりというイメージがあるだろう、って楽しそうに話してくれた。でもね……」


 道が木陰に入り、それまでずっと柔和だった泉美さんの顔に、濃い緑色の陰りがさした。


「その苗字も、ファーストネームのアルバートも、ほんとは彼のものではないのよ。彼は孤児で、私の家からほどちかい施設で暮らしていた。でも私はその意味を、ずっと理解できていなかったの……」



28-2 [IY ̄] 01


 彼と知り合ったのは、私が七歳のときだった。


 私の父は外交官で、ウィーンに赴任が決まったとき、家族を連れていくことを選んだ。私がまだ小学校にあがる前だったから、ちょうどいいと思ったらしい。

 けれど、言葉も習慣もわからない異国での生活は、思っていたよりも大変なことだった。

 名家の娘で社交的だった母は、すぐに近所のコミュニティに入っていけたが、ひとりっ子で内向的だった私は、学校にもなじめず友だちもできなかった。


 そんなある日、私はトラムに乗ろうとして、定期券をなくしていることに気づいた。

 歩いて帰ろうにも道がわからなかったし、現金は持たされていなかったから、私は途方に暮れていた。

 次々に走り去るトラムを見送るうちに、涙があふれてきた。


 そのとき。

「どうしたの?」と、男の人のやさしげな声がした。

 目の前に、柔和な笑みを浮かべた顔が見えた。彼の背後で、白いライラックの花が香り高く咲いていた。

 知らない男の人だった。でもなぜか、私はすっかり安心してしまった。

 それがアルバート・シュレーディンガーだった。


 彼は私の片言のドイツ語に辛抱づよく付き合ってくれただけでなく、事情がわかると家まで送りとどけてくれた。

 その日から彼は、トラムで私を見かけると、かならず話しかけてくれた。それがうれしくて、私も彼を見つけると話しかけるようになった。

 大学で数学を学んでいる彼はとても頭のいい人で、学校の勉強のことだけでなく、いろんなことを私に教えてくれた。


 休みの日になると、私たちは連れ立ってハイリゲンシュタットの森やカーレンベルグの丘を散策した。

 ウィーンの森は、いつも私たちをその豊かな懐に包み込んでくれた。

 せせらぎや風の音そして小鳥の声に耳を傾け、道端に咲いた花を摘み、夏の木洩れ日に目を細め、冬の雪を踏みながら、私たちは時を重ねていった。

 幼いころに抱いた彼への尊敬の気持ちは、思春期になって思慕――ありていにいえば恋愛感情に、自然に変わっていった。



 あとになって分かったことだが、母は彼のことを、あまり快く思っていないようだった。

 それがわかったのは、私の十三歳のバースディパーティのときだった。

 母は彼となにかを話していたようだったが、私の手を取って引き寄せると、こう言った。


「この子はまだ世間知らずだから、貴方とは話が合わないでしょう。無理して付き合ってもらわなくてもいいのよ」


 まるで訪問セールスを断るように、母の口調には、相手を見下したような冷たさと険がこもっていた。

 それを聞いた彼は、表情を曇らせて部屋の隅のカウチに腰を下ろした。その目は、どこかうつろで、ひどく落ち込んでいるように見えた。

 だから私は、彼に声をかけた。


「どうしたの? 寂しそう」


 彼は、そうだね、と力のない声で答えた。

 こんなに元気のない彼を、私は初めて見た。

 そのとき、不意に、私の心のなかに、あたたかなものが湧き出してくるのを感じた。それは、この人をひとりにしてはいけない、と私に告げていた。

 だから。


「じゃあ、泉美がずっといっしょにいてあげるね」


 そう言って、約束だよ、と彼の小指と私の小指をからませた。


 パーティが終わったあと、私は、どうしてあんなことを言ったのか、母に尋ねた。母は理由を答えずに、話をそらした。


「泉美は、もっと年齢の近い、女の子のお友だちと遊びなさい」


 女の子という部分に、あきらかなアクセントがあった。

 それで私は確信した。どういう理由だかわからないが、母は私を彼から引き離そうとしている。

 でもかまうものか、と私は内心で反抗した。これからも彼と遊ぶんだ、好きな人と一緒にいるんだ、と。



 後期ギムナジウムに通う年齢になると、私にも母がなぜ彼に冷たい態度をとるのか、その理由の片鱗がおぼろげながら見えてきた。


 人種と身分の差。

 現代にも脈々と受け継がれている、負の遺産が原因だったのだ。


 それは、たんなる概念ではなく、この社会すべてを、そして私たちをがんじがらめにする、目には見えない呪縛の網だった。

 私たちは、出会ったときからすでに、その網に捕らわれていたのだ。それと気づくこともできないままに……。



 十七歳になった私は、オーパンバルのデビュタントに出場することになった。オーパンバルのデビュタントとは、平たく言えば舞踏会にデビューすることだ。

 ウィーンには社交界があって、上流階級の子女は適齢になると、お披露目のための舞踏会に出る習わしになっている。

 お披露目とはいうが、それが事実上のお見合いであることは知らされていた。もちろんそれで、交際の相手や将来が限定されるわけではないけど、私と彼にとって大きな転機になるだろうことは明らかだった。


 だったら、と私は早合点した。彼といっしょにデビュタントに出場すればいいのだ、と。

 けれど彼は、たぶん私の気持ちも、誘いの意味も気づいているはずなのに、ダンスができないという理由で、出場を断った。

 だから私は意地になった。意地になって、彼にダンスの手ほどきをした。こんなものが、私たちを隔てる壁なんかじゃないのだと、わかってほしかった。


 彼は飲み込みが早くて、オーディションの前には規定のダンスをほぼ踊れるようになっていた。審査のときも、他の男性よりずっと上手かった。

 だから絶対に大丈夫だと思っていた。


 私は、自身が未熟で無知だと気づけず、ゆえにそれを過小評価してしまっていた。

 彼がためらわずにいられなかった理由――私たちをとりまく世界に内包された、悪意の総量を。

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