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Article 27 : capacitance - 事情と弁解の許容量

27-1 [BH ̄] 11


 アヤノから電話がかかってきた。

 ジョセフ・クロンカイトと協議した結果、一連の出来事をニュースとして報道することになった、と弾んだ声が告げた。


 ぼくは思わず、ちょっと待ってくれ、と答えた。

 そうなったら学会だけでなく、マスコミへの対応もしなければならない。不慣れなぼくたちでは、たぶんお手上げだ。報道という切り札はあくまでも、ニーナとアルバートから論文取下げを引き出すための、ブラフでなければならないのだ。

 そう話すと、アヤノは意外そうな声で答えた。


「そうかもしれませんが、このままだといずれ告発者がしびれを切らせて、よそに持って行くかもしれません。そうなったら、もう状況をコントロールできなくなりますよ」


 ぼくは言葉を失う。

 アヤノの言葉はもっともだし、ぼくの味方をしてくれている。けれど、彼女がマスコミ関係者である以上、最終的にはその立場が優先されるということだ。

 とはいえ、学会とマスコミの二正面作戦をとることはとてもできない。

 すまないけど、と前置きをして、ぼくはぎりぎりの提案をした。


「アルバートを説得して、論文を取り下げさせる。だから、もうすこし報道を待ってもらえないだろうか。ニーナはああいう人だから話にならないだろうけど、アルバートならぼくの言葉に耳を傾けてくれるかもしれない。報道を止められるリミットはいつかな?」

「夜のニュースショーだと言っていたので、こちらの時刻だと午後十一時が限界だと思います」


 アヤノは不満げにそう答えたあと、ちょっといいですか、と問いかけてきた。


「前から気になっていたんですけど、ハイゼンベルク博士はシュレーディンガー博士と、親しい間柄なんですか。お互いに、いろいろとご存じのようですし」

「うん、そういえばアヤノにはまだ話してなかったね。アルバートはCERNに入ってからしばらく、ぼくの助手をしていたんだよ」


 えっ、と本気で驚いたような声がスマホから聞こえた。


「シュレーディンガー博士も、量子重力理論の研究を?」

「そうだよ。そんなに長い間じゃなかったけどね。あのままぼくの研究室にいれば、こんなことにはならなかっただろうに……」


 それは残念でしたね、とアヤノがつぶやいた。

 その言葉の本質的な意味は、たぶんぼくがいま抱いている感慨とおなじものだろう。


「アルバートは紛れもない天才だよ。そして、とても純真な人間だ。なのに、分不相応の野心を持ってしまった。だから、ニーナと出会ったことは、彼にとってはもろ刃の剣だったんだ」

「野心?」

「そう、彼は地位や名誉や金銭に、とてもこだわっていた。いや、こだわっていたというより、まるでなにかに追い立てられているように、がむしゃらにそれを求めていた」

「それって、たぶん泉美さんのため、ですよね。シュレーディンガー博士ご自身が、そんなことを仰っていました……」


 そう、アルバートは、いま彼の妻になっている女性のために、わき目もふらず、そして世間の目など気にもかけずに、ひたすら前をむいて歩いていた……はずだった。


「なのに、どうしてボーア博士と、あんなことを?」


 アヤノの投げかけた問いは、アルバートだけではなく、ぼくにも向けられているように思えた。

 だから。


「そうだね、たぶん……」


 そう口にしてしまってから、ぼくは後悔した。

 あいまいな答えでは、アヤノは納得しないだろう。だが、ああいうときの気持ちを的確に伝えられる言葉を、ぼくはほとんど持ち合わせていない。たぶん、アヤノがもっと人生経験を積んで、はじめて理解を得ることができるのだと思う。

 それでもぼくは、いちばん近い意味をもつ言葉を、口にした。



27-2 [AK ̄] 23


 疲れてしまったんだよ、とベルナルドさんはつぶやいた。

 ほんとうに疲れた人のような声だった。

 そこでやめるべきだったのかもしれない。でもあたしは、その問いをとどめることはできなかった。


「疲れた? 何にですか」


 そうだね、とつぶやいたベルナルドさんは、声のトーンを落とした。


「なにかを得るための長くて遠い道のりは、平坦ではないところもあるだろうし、悪天候のときもあるだろう。そんなときには、身体や心を慰めてくれるものも必要だと思うんだ。アルバートとニーナは、目的地はちがうけど道中を同じくするという意味で、パートナーだった。それがたまたま、男と女だったということだよ」


 ベルナルドさんの言葉、とくに最後の部分は、納得のいかないものだった。

 あたしだって、男と女のあいだのことくらい、わかっているつもりだ。でも、男と女だからという一言で、括ってしまっていいようなことではないと思う。そんなふうに自己正当化をするなんて、ベルナルドさんもシュレーディンガー博士もずるい。


「自分で選んだ道なのに、疲れたからって逃げたり投げ出したりして……そんなの、言い訳ですよね。それなら、最初からやらなければいいじゃないですか」


 そうだね、とベルナルドさんはため息を落とした。


「まあそれはともかく、ぼくはアルバートを説得する。うまくいったら、報道は先にのばしてくれるね?」

「その判断はジョセフ・クロンカイトがすることなので、あたしには答えられません。でも、CERNサイドに何か動きがあれば知らせるように、と言われているので、お伝えはしておきます」


 じゃあ頼んだよ、と言って、ベルナルドさんは電話を切った。

 不本意ではあったけどあたしはジョセフにもういちど電話して、場合によっては報道を延期してもらうことになるかもしれませんと伝えた。


 これであたしの仕事は、ほぼ終わった。

 あとは成り行きを見守るだけだったけど、あたしは泉美さんに会ってみたくなった。いったい、どんな女性なのか、彼女は夫となったシュレーディンガー博士のしていることを、どこまで知っているのか。会って、話を聞いてみたかった。

 無理を承知でスクルドに頼んでみたら、そういうのは守備範囲じゃないんだけど、とぼやきながらも面談をセッティングしてくれた。



 市内から郊外に向かうトラムD線に乗って、待ち合わせ場所のハイリゲンシュタットに向かう。

 市街地を取り囲むリンクという周回路線から外れると、車窓の彼方に緑の森林が広がる。

 ウィーンの森だ。

 アルプス山脈に端を発する、面積一千平方キロに及ぶ広大な森林で、ウィーン市街地と接するあたりに、ハイリゲンシュタットはある。

 楽聖ベートーヴェンゆかりの地で、「田園」交響曲の着想を得たといわれている散歩道ベートーヴェンガングが有名だ。

 その道をいっしょに歩きましょう、というお誘いだった。


 トラムの終点には、キャメルのコートに身を包んだ小柄な日本人の女性が待っていた。


「はじめまして、泉美・湯川・シュレーディンガーです」


 名乗りながら、彼女は澄んだダークブラウンの瞳をあたしに向けた。それは、黒い髪とまつ毛に縁どられた泉のようで、彼女の名前の由来になったのではないかとさえ思えた。

 あたしが自己紹介をすると彼女は、じゃあ行きましょうと言ってふわりとほほえんだ。

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