Article 26 : exclusion principle - それぞれの排他律
26-1 [AK ̄] 21
一瞬、なにを言われたのか、わからなかった。
でもその言葉の意味を理解したとたんに、あたしの感情は沸騰した。
食べ残しのBLTサンドをトレイに残したまま、あたしは椅子をけって立ち上がった。
ガタンと派手な音が鳴り響いたけど、気にもならなかった。
「あなたなんかに、そんなこと言われる筋合いはないです」
口をついて出た言葉は、自分でもおどろくほどの剣幕だった。
その勢いで思い切りボーア博士をにらみつけてやったけど、彼女はため息をついて小ばかにしたような微笑みを返してきた。
「大きな声を出さないでよ、みっともない。ちょっとからかっただけじゃない。それとも、そんなに怒るところをみると、かわいいふりしてやることはやっている、とか?」
いまさらのように、まわりの客たちの視線を感じた。怒りと恥ずかしさで、あたしの顔が上気する。言い返してやりたいのに、うまく言葉にできない。それが悔しくて、涙がにじんだ。
ボーア博士は、ちっと舌打ちをした。
「ちょっと、そういうのやめてよね。まるで私がいじめているみたいじゃないの。そっちから絡んできたんでしょ。ほんと、気分が悪いわ」
じゃあ私は忙しいから、と言ってボーア博士も席を立った。
「せいぜい男に媚を売って、かわいがってもらうといいわ。そんなことができるのも、若いうちだけなんだから」
26-2 [NB ̄] 07
カフェを出た私は、まっすぐにホテルに向かった。
あの小娘――アヤノは、頭はいいけど記者としては半人前もいいところだと思っていた。だが、どうやって取材したのか、私が知らなかったアルバートの投資のことまで調べ上げていた。やはりジョセフ・クロンカイトが目をかけているだけのことはあるようだ。
もっとも、彼女が記事を書いたとしても、世間はほとんど注目しないだろう。そういう意味では、たいした脅威ではない。けれどジョセフ・クロンカイトが取り上げたとしたらどうだろう。そんなことは、考えるまでもないことだ。私とアルバートはすぐさま、記者に囲まれることになる。そうなれば、CERN所長の地位どころか、下手をすればすべてを失うかもしれない。
いまさらのように、私の中にアヤノへの嫉妬の炎が燃え上がった。
あの娘は、私にないものをすべて持っている。若さ、頭脳、そして……。私には、いままで味方なんてひとりもいなかったのに。ジョセフ・クロンカイトもベルナルド・フォン・ハイゼンベルクも、あの娘を選んだ。私ではなく、あの娘を。
このままにしておくことなんて、できるはずがない。
私はパウリに電話をかけた。どうせウィーンに来ているに決まっているのだ。燃えさかる熱くて冷たい炎を消すには、それしかなかった。
「やあ、君か。奇遇だね、私もいまウィーンにいるんだよ」
パウリはうそぶいたが、私の思った通りだった。けれどそんなことはおくびにも出さず、私はたっぷりと蜜をまとわせた声で彼を誘った。
「よかった。ねえウォルフ、また愚痴を聞いてほしいの。これから会えないかしら」
26-3 [AK ̄] 22
ボーア博士の背中が雑踏に消えてから、あたしは椅子に座りなおした。そして、コーラとともに怒りを飲み込んだ。
……つもりだった。けれど、そんなことでは、あたしの気持ちは納まらなかった。
あたしはジョセフに電話をかけた。融点をはるかに超えて煮えたぎった赤黒い感情のはけ口は、もうそこしかなかった。
ジョセフが電話に出るなり、NPU事件を報道してください、と詰め寄った。
けれど、あたしの気持ちなど知る由もないジョセフの返答は、煮え切らないものだった。
「学会の直前だろう。CERNサイドは、それで大丈夫なのかい?」
そんなこと、どうでもいい。
思わず言いかえしそうになったけれど、血が上った頭の片隅にわずかに残っている醒めた部分が、それではだめだと警鐘を鳴らした。
深呼吸をひとつすると、ジョセフを説得しうる材料が思い浮かんだ。
「ハイゼンベルク博士とプランク所長で対応を検討するらしいですけど、自縄自縛で身動きがとれないようでした。告発者の存在を考えると、学会の前に私たちが動いた方がいいと思います」
これでいける、と確信した。
告発者がマスコミのあたしたちを巻き込んだのは、ベルナルドさんたちの選択肢の限界を見越したうえでの、賢明な判断だったのだろうとさえ思えた。
思ったとおり、いいだろう、という重々しいジョセフの声がスマホから聞こえた。
「インサイダー取引の件も、裏はとれている。まだ詰めが甘いところもあるが、今夜のニュースショーで取り上げることにしよう」
小躍りしたくなる気持ちを抑えて、あたしは些細なつけたしのように、本題を切り出した。
「ついでに、ボーア博士とシュレーディンガー博士の不適切な関係も、報道してくださいね」
「どうしてだい?」
「そのせいで、CERNの内部統制が機能せず、こんな事件が起きた。この事実も報道すべきだと思うんです」
研究不正ということだけでは、この事件の本質は伝わらない。これは正論だ、あたしは間違っていない。そう思った。
けれど、ジョセフの返事は意外なものだった。
「明白な証拠がないのに、プライバシーの部分に踏み込むのは、リスクが高いことだよ。そもそも、そんなネタは、我々が扱うべきものじゃないしね」
ただのゴシップやスキャンダルではない。それは説明したはずなのに。
そういえば、ベルナルドさんも同じようなことを言っていた。どうして二人とも、ボーア博士の行為を責めないのだろう。
「でも、ボーア博士は……」
続きを口にしかけて、あたしは言葉を飲み込んだ。
報道を主張する理由が、ベルナルドさんとジョセフとあたしの関係を邪推されたからだなんて、言えるはずがない。
……えっ、ちょっと待って。
あたしはそこで、はじめて違和感を覚えた。考えてみれば、ベルナルドさんとジョセフが、あの脈絡で同列に扱われているのは妙だ。ジョセフはたしかに人気のある独身男性だけど、あたしとは師弟関係にすぎないということは、その気になって調べればすぐにわかるはずなのに。
あるいは、ボーア博士からすれば、男と女はすべてそういう関係にしか見えないのだろうか。だとしたら、あきれるほどに短絡的だということだ。でも……。
なにか、もやもやとしたものを感じる。その正体が見えないままで、ジョセフの声がした。
「ボーア博士がどうしたんだい?」
「いえ、なんでもありません」
あたしは、そう答えるしかなかった。
ジョセフはそれで、あたしが納得したと思ったようだった。
「オーケー。アヤノは引き続き、そちらの様子を見ていてくれ。CERNサイドからの発表があるようなら、すぐに知らせるように。それと、パスポートの再申請を早めにやっておきなさい」
あたしは、はい、と答えて電話を切った。
でももちろん、納得したわけじゃなかった。記者会見や検証会での仕打ちは、まだいい。あたしがマスコミ関係者なら、そういうこともあるだろう。でも、今日のことだけは、絶対に許せない。公人としても、私人としても、あんな人は社会から排除されるべきだ。
どうしようかと思ったとき、ひとりの女性の顔が思い浮かんだ。そうだ、彼女なら……。
スマホを取り出し、あたしはアンジェラの番号をコールした。
スリーコールを待つこともなく、ハイ、と元気のいい声が受話口から聞こえた。
「アヤノじゃない。スイスに行ってるって聞いたけど、なにかいいネタでもあったの?」
彼女はジャーナリズムスクールの同期で、一足先に卒業してニューヨークで最大手のタブロイド紙で記者をやっている。この手の記事には、飛びつくはずだ。
「ええ。アンジェラのところで、取り上げてもらいたいネタがあるの」
あたしの話を聞いたアンジェラは、思ったとおり、うわずった声で答えた。
「すごいスキャンダルじゃない。そういうの、ウチのデスクは大喜びだわ。もちろん、読者もね。サンキュ。明日の朝刊を楽しみにしてて!」
これでボーア博士の悪行が世間に知れて、しかるべき制裁がなされるだろう。まさに自業自得だ。
ほっと一息ついて、あたしは視線を上げた。
赤い屋根の家々の彼方には、シュテファン寺院のゴシック様式の南塔が、雲間からのぞいた青空を突き刺すように、ギザギザした円錐を伸ばしていた。
重苦しい雪雲が流れていき、やがて午後の陽光が尖塔を照らした。
石造のレースを思わせる彫刻が立体感を浮かび上がらせ、塔の先端を飾る金色の双頭の鷲と大司教十字がきらりと光った。
あたしはウィーンに来てからはじめて、すっきりとした気分になった。




