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Article 19 : pair annihilation - ふれあえないものたち

19-1 [AS ̄] 05


 彼女――アヤノは、イズミに似ている。


 あの記者会見で受けた第一印象は、わずかにかわした会話だけで、まちがいではなかったのだとはっきりわかった。

 日本人で、年齢も近くて、とても優秀な頭脳を持っていて。そして、ひたすら前だけを見て、まっすぐに歩んで行こうとしていて。

 けれど、たぶん。

 僕やイズミと、決定的にちがうところが、アヤノにはあるのだ。


「それで、君は昨日、なにを見つけたんだい?」


 アヤノは、その大きな瞳で僕をじっと見つめたあとで、迷いを断ち切るようにはっきりと答えた。


「特定の、いくつかの値の領域では、改良された数式でもダイバージェンスから逃れることはできませんでした」


 やはりそうだったか、と僕は思った。

 それは予想を越える内容だったけど、ありえないことではなかった。オリジナルの数式よりも格段に強化されたとはいえ、完璧な数式などそう簡単にできるものではないのだ。


「具体的な値を示してもらわないと、なんとも言えないけど……まあ、数学的な可能性としてはあるだろうね。ただ現実的にとりうる値の範囲では、数式は確実に成立するはずだよ」

「はい、その通りです。でも、それなら、あの数式から導き出される多重世界は、虚数空間でなければ存在しえないということになります。虚数空間なんて、それこそ数学的な可能性でしかありません。つまり、博士の実験も現実世界では成功しなかった、ということになります」


 その言葉で、僕はある確信を持った。

 アヤノは、物理学者というよりも、数学者なのだ。この少女のたぐいまれな頭脳は、明確さだけを追求する思考回路で構成されているのだ。

 そういう意味では、アヤノと相性がいいのは、ニュートン力学やマクスウェル電磁気学、それにアインシュタインの特殊相対性理論などに代表される古典物理学だろう。記者会見のときのニーナの嫌味も、案外、的を射ていたのかもしれない。


 イズミとアヤノは、似ている。

 けれどふたりに与えられた天才は、その本質において対極にある。

 僕の数式を見たイズミは言った。「シュトラウスのワルツを踊っているようだ」と。

 イズミは、物理法則のもつ意味を、知識として理解するだけでなく、むしろ心で感じとることで、無意味で曖昧な部分もひっくるめて自分のものにしてしまう。

 だがアヤノは、そういったものをことごとく切り捨てていく、『オッカムの剃刀』のような存在だ。そこに存在する可能性や、その意味すら吟味することもなく。

 だから僕は、反論する。反論するしかないのだ。


「いや、そうは言いきれないだろうね。多重世界は存在しうると、僕は思っているよ。ただし、それは……」


 僕の言葉でなにかに気づいたように、アヤノはあっと声を上げた。

 勝気そうな大きな瞳に暗い影がさし、まだ多分に少女らしさを残した唇が悲しげに言葉をつむぐ。


「近づくことはできても、けしてふれあえない、ううん、ふれあってはいけないことが運命づけられた、世界たち……なんですね」


 なんて皮肉なことだろう。これほど立場がちがうというのに、アヤノにもわかってしまうのだ。イズミが『残酷だ』と嘆いた、あの数式の帰結が。


「君は優しいね。あくまでも、ナノメートルオーダーの、理論上だけのことだよ。でも、あの数式に虚数項を導入したのは、僕の人生で最大のミスだ。どのみちダイバージェンスが解決できないのなら、虚数項は撤回しよう」

「博士は、それでいいのですか?」


 アヤノの問いかけの意味は、もちろん僕にも分かった。

 虚数項を持たないオリジナルの数式では、ダイバージェンスを起こす値の領域が格段に増加する。それはつまり、僕の理論とそれに基づいて製造されたNPUの限界を証明することになるのだ。その事実を受け入れるのか、とアヤノは尋ねているのだ。

 だが、その意味では、僕の答えは決まっているし、変わることもない。


「ああ、いいさ。もともとNPUは、虚数項を導入しない理論で作られているし、多重世界を探索したり露出させたりするためのデバイスじゃない。現実的にとりうる値の範囲で、コンピュータの素子として期待されている性能をちゃんと発揮すればそれでいいんだ」

「量子コンピュータ『オラトリオ』ですね。博士はどうして、ナノテック・エレクトロニクスの株主なんかになっているんですか」

「あの会社だけが、NPUの製造に成功したんだ。それに、僕に対して、それなりの見返りも約束してくれたからね。CERNは地位と名誉を、ナノテック・エレクトロニクスはお金を与えてくれる。そういうことだよ」


 僕の答えを聞いたアヤノは、眉間にきゅっと皺を寄せた。


「地位や名誉やお金が、そんなに大切なことなんですか」


 アヤノの詰問は、予想できていた。そして僕は、そのことになんらの嫌悪感もなかった。

 そもそも、あれは相応の対価だし、非難されるようなことでもない。とくにイズミやアヤノのような種類の人間には……。


「その問いは、地位や名誉やお金がなくても差別されなくて、普通に生きていける場所で生まれ育った人の発想だ。僕にとっては、それはなによりも大事なことなんだ。僕を愛してくれたイズミのためにもね」



19-2 [AK ̄] 17


 イズミのために、というシュレーディンガー博士の言葉を聞いて、あたしは確信した。

 この人の心根は、とても純粋なのだ。だからこそ、まっすぐにどこまでも、自らの求めるものを追いかけてしまうのだろう。

 イズミさんのことだって、心から愛しているにちがいない。

 ならばなぜという疑問が、不快感とともに、あたしの中にわき起こる。恩人に対して失礼だとは思ったけど、あたしはそれを口にせざるをえなかった。


「それなら、どうしてボーア博士と……その……そういう関係になったりするんですか」


 失言ともいえるあたしの質問に、けれどシュレーディンガー博士は、顔色ひとつ変えなかった。


「そんなことを、だれから聞いたんだい?」

「それは言えません。ただ、たしかな情報源です」


 ふうん、とつぶやいたシュレーディンガー博士は、カフェオレを一気に飲み干した。そしてカフェオレ・ボウルをソーサーに置くと、さて、と言って席を立った。


「どうやら、もう大丈夫なようだね。じゃあ、僕も仕事に戻るよ」


 その言葉で、あたしは自分の軽率な質問を後悔した。あわてて立ち上がって、頭を下げる。


「すみません、つい調子にのってしまって。失礼をおわびします」

「いや、謝罪する必要なんてないよ。ただ、答えられるようなことでもないしね。まあ、人には、いろんな事情があるってことだよ。僕にも、プランク所長にも、そして、ハイゼンベルク博士にもね」


 思いもかけない名前を聞かされて、あたしは自分の耳を疑った。

 シュレーディンガー博士の言葉の脈絡だと、まるでプランク所長やベルナルドさんまで、ボーア博士とそういう関係があったみたいに聞こえる。

 内心の動揺を隠して、あたしは問いかけた。


「どうしてここで、プランク所長や……ハイゼンベルク博士の名前が、出てくるんですか」


 言葉のあやだとか、君の思いすごしだとかいう、そんな答えを期待した。けれど。

 えっ、と声をあげたシュレーディンガー博士は、言いかけたことを飲み込んだようだった。


「それは……いや、なんでもない。今日は君と話せて、うれしかった。ここは、ごちそうしておくよ」


 あわてて取り繕うその反応は、とてもわかりやすくて。

 おだやかに凪いでいた心の水面に、石がひとつ投げ込まれた。起きた波紋は重なりあい、浮かび上がった干渉の縞模様が、あたしの心を大きく小さく揺らせ続けた。

 知らなくていい、いや、知らないほうがいいことかもしれない。

 でも、マルガレーテさんのこともあるし、知りたいという気持ちを抑えることはできなかった。


「ほんとうに、お世話になりました。明日にでも、お礼にうかがっていいですか。もうすこし、お話も聞きたいですし」


 自分でも、よくそんなことが言えるな、と思う。こんなの、完全に個人的な事情だ。そんなことのために、シュレーディンガー博士との接点を維持しようなんて、あたしはいつの間に、こんなにあつかましい人間になったんだろう。

 そんなあたしの目論見を看破したのか、レジを済ませた博士は首を横に振った。


「残念だけど、それは無理だね」

「どうしてですか」

「明日からしばらく、CERNを留守にするんだ。ニーナも、それにハイゼンベルク博士やプランク所長もね」


 よりにもよって、そのメンバーが揃っていなくなるなんて。

 寂しいとか、心細いとかいう気持ちは、まったく起きなかった。ただ、ここに残されてはいけないという焦燥感が、あたしの口から質問になってあふれた。


「どちらにお出かけなんですか」

「ウィーンだよ」


 シュレーディンガー博士は、近所に買い物にでも行くような気軽さで、八百キロも離れた、隣国の首都の名前を答えた。

 そして、じゃあね、と軽く手を振ると、ドアを押し開けて店を出て行った。


 カウベルのカランという音にまぎれて、ドビュッシーの『夢想』が、静かに曲を閉じた。

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