28.名もなき関係
更新遅くなりました。
あたりは静まりかえっているのに胸がざわつく。
翌朝、奇妙な感覚で目を覚ましたフロランスはおっかなびっくりで寝床から出た。
寝具のリネンは柔らかく、藁や毛羽だった毛織物が肌に刺さらないのが落ち着かない。それでも今日は寝床から転がり出ずに済んだから一つ進歩である。
昨日はあれほど疲れていたというのに、グレゴワールに体を治療してもらったからか熟睡できたからか、体は羽のように軽い。
(外に誰かいるのかな?)
身繕いを終えたフロランスはドアをそっと押して、そこから見えた廊下の様子にあ然とした。
「――!!」
「――…」
「っ――!」
チンピラがグレゴワールに怒鳴っている。ように見えるのに声が全く聞こえない。
そのチンピラは銀灰色のやや長めの髪を後ろへ流し、両耳には銀の飾りを付け、不愉快そうに眉間と鼻に皺を寄せて大きく口を開けてグレゴワールに詰め寄っていた。クレドーの酒場で飲んだくれては息巻いていた威勢の良い若者を、都会風に洗練して黒ローブを着せたような若者だった。
フロランスはチンピラの姿に一瞬ひるんだが、ここにはアリゼはいないのだ、アリゼの取り巻きではないのだと気を取り直す。
(でも、声が)
耳がおかしくなったのかと思ったが自分の立てる足音は聞こえている。
グレゴワールがフロランスにニタリと笑いかけて、宙でなにかを払いのけるような仕草をした。そのとたん、薄い膜が剥がれたように、とたんに廊下側からの物音が――遠くの爆発音だとか人の声だとか――が聞こえ始めた。
「おはよう、フロランス」
「おはようございます。あの、今のは?」
「遮音壁。眠りを妨げたくなかったからネ。よく眠れたかい?」
グレゴワールの優しさにフロランスの心は一気に浮き上がった。無意識にグレゴワールに近寄るとグレゴワールはフロランスの頭を撫でた。
フロランスは胸のあたりがぽうっと熱くなって自然と笑みがこぼれるのを止めることができなかった。視界がグレゴワールで一杯になる。
「はい、大丈夫です! ありがとうございます」
「フフ、こんなものなんでもないヨ」
「……てめえコラ、人を無視していちゃついてんじゃねえぞこの死体野郎が!」
横からチンピラに怒鳴りつけられて、フロランスはとっさにグレゴワールの後ろに隠れた。
チンピラは顔を前に出してぎろりとフロランス睨み付け、苛々と怒鳴った。
「っぜ、ビクビクすんな田舎女が! ……テメエが太陽女か」
「た、太陽女……?」
「ウン、私の太陽だヨ」
当たり前のように言うグレゴワールに、フロランスは少し頬を赤らめた。恋情が含まれない言葉であるとはいえ、嬉しくて少し気恥ずかしい。
チンピラは口の端をひくつかせて再び怒鳴った。
「……太陽だあ? ただの死体野郎の犬っころじゃねえか!」
「え、え、犬?」
「死体野郎を見たとたん尻尾ぶんぶん振って目ェキラキラさせやがって、捨て犬に拾い主じゃねえか」
「すて……」
フロランスは絶句しがっくりと肩を落とした。
(……そ、そうかも……)
なにも反論できない。
グレゴワールは真顔で首を横に振った。
「喩えるなら捨て犬じゃなくて花と――」
「けっ、死体にクセエ台詞は似合わねんだよ! ともかく俺はやらねえ、わかったか太陽女ァ!」
「あの、何を?」
グレゴワールが小さく「彼はジュール、雑用の手伝いだヨ」と呟いたのでフロランスは全てを理解した。ジュールはグレゴワールに雑用の手伝いを頼まれ、それを拒絶しているのだ。
フロランスはなんとなく申し訳ない気分になった。仕事が溜まっているのはフロランスのせいではないが、魔術師に雑用をさせるのは気が引ける。
フロランスはジュールをまじまじと見た。
(想像とかなり違う人だわ)
グレゴワールが信頼するジュールはさぞかし人格者でいかにも偉大な魔術師といった風情の男だろうと思っていたのだが、ジュールはローブさえ着ていなければ王城務めとはわからないだろう。やや荒っぽい雰囲気で王城よりも王都の下町の方が似合っている。
ジュールは皮肉げに薄い唇を歪めた。
「それにな、手伝いならあのクソ女が来るぜ。クソ野郎の反対を押し切ってな!」
「……もしかして、クロディーヌ嬢が?」
「せいぜい相手してやんだな、俺は知らねえ」
「ジュール」
ジュールは吐き捨てるように言うと、グレゴワールが止めるのも聞かずに荒々しい足音を立てて廊下の奥へ行ってしまった。
フロランスは不安になってグレゴワールを見上げた。誰かに雑用を手伝ってもらえるのは有り難いが、相手がクロディーヌとなると話は別だ。
――頭も鈍そうだし……役に立つとは思えないけれど?
クロディーヌの言葉を思い出して浮いていた気分が沈んだ。
(……役に立ちたいのに)
グレゴワールは昨晩、フロランスに感謝の言葉を述べて喜んでくれた。フロランスにはそれが嬉しかったけれども、その一方で、自分の存在意義があまりないのではないかという思いが強く心に根を張っていた。
グレゴワールはフロランスをのぞき込んだ。
「フロランス、キミに害が及ばないようにするからネ」
「……はい」
「さあ、朝ご飯を食べに行こう」
フロランスは一抹の不安を抱えながらも、素直にグレゴワールに手を引かれて食堂へ向かった。
***
グレゴワールと食事を終え、食堂を出たところで広間の入り口がざわついているのが目にとまった。ヴェロニックがこちらに背を向けて仁王立ちになっている。
「――って言ったでしょ! 第一どうやって入ってきたのよ。門番に止められたはずよ」
「ええ、けれどブロンダンの女だと名乗って丁寧に説明したらわかってくださいましたわ」
「説明!? それは脅しって言うのよ」
「決めつけないで下さいな? それにわたくし、真っ当なご用があって参りましたのよ」
ヴェロニックはどうやらクロディーヌと言い争っているらしかった。
と、「ちょっと待ちなさい!」というヴェロニックの声を無視してクロディーヌが大広間の中へ入ってきた。例の侍女も連れている。
そしてフロランスを見るや否やツカツカと歩み寄ってきた。
(うわっ……)
フロランスは身構えて足を踏ん張った。グレゴワールの影に隠れたかったが、この場合にそうすれば火に油を注ぐとわかっている。
ところがクロディーヌはフロランスの前で足を止めると、美しい所作で優雅に頭を下げた。クロディーヌの後ろに控える侍女もまた頭を下げている。
「昨日は失礼したわね、フロランス。あなたに乱暴なことを言って悪かったわ」
フロランスは瞠目した。
貴族がただの平民に頭を下げて謝罪するなどめったにあることではない。顔を上げたクロディーヌは神妙な顔をしていて、アリゼのように演技をしているようには見えなかった。
「つい感情的になってしまった。グレゴワール様にゴミ虫がついたと思い込んでしまったのよ」
「ご、ごみむし……」
「グレゴワール様にも心より謝罪いたしますわ。聡明なあなた様が妙な女を手元に置くはずはありませんものね」
「いったいどういう心境の変化なのよ」
ヴェロニックが不信感を露わに尋ねると、クロディーヌはすまし顔をつんと反らした。
「どうもこうも。間違いに気がついたから謝罪をした、それだけですわ」
「……嘘はついていないようね。ならいいわ。用は終わったんでしょう、家に帰りなさい」
「終わっていないわ。わたくし、雑用の手伝いに参りましたの!」
「は!?」
高らかな宣言にヴェロニックは顔を引き攣らせ、フロランスは硬直し、グレゴワールは首を傾げた。
「クロディーヌ嬢が仕事をなさるのですか?」
「ええ。わたくしが侍女に仕事をさせるのよ」
「……それなら雑用の手伝いは侍女がするってこと? ならあなたはここにいなくてもいいじゃない」
「この侍女はわたくしの侍女よ。主人の側から離れるなんて許されるものですか。わたくしがここにいるからこそこの侍女は第五部隊の雑用をすることができるのよ」
勝ち誇ったように言うクロディーヌにヴェロニックは黙り込んだ。
グレゴワールがフロランスにこっそりと囁いた。
「フロランス、キミはどうしたい? 一緒に働きたくないなら断るヨ」
フロランスはヴェロニックとにらみ合っているクロディーヌを見た。
クロディーヌは貴族で逆らうことはできないしその言動は怖く感じた。だがアリゼのように裏で人を陥れるタイプではなさそうに見えたし、先ほどの謝罪も建前ではなく本音であるように思えた。
それに、聞いたところによるとブロンダン家は死霊術の発展に寄与してきた貴族の家系であるらしい。グレゴワールもクロディーヌを無碍にはできないに違いない。
(……それに、クロディーヌ様はグレゴワールさんの赤いバラ、なんだし)
心がちくりと痛んだが、フロランスはそれを意識的に無視して頷いた。
「グレゴワールさん、大丈夫だと思います。一緒に働いても」
「わかった。……クロディーヌ嬢、ではフロランスの雑用を手伝って下さるということですね?」
「ええ。女に二言はないわ」
クロディーヌは顎を上げて、任せなさいというように胸を張った。
***
フロランスがクロディーヌたちを古城から洗い場まで案内すると、すぐにベケット夫人が飛んできた。
「――ふん、これだからお高くとまっている女は嫌なんだよ! こちらは遊んでるんじゃないんだからね! フロランス、さっさとするんだよ、まだまだ納屋は詰まってんだからね!」
ベケットはクロディーヌにも毒づいたが、さすがに貴族相手であるためかすぐに矛先をフロランスに向けて、プリプリしながら洗い場と干し場をいったりきたりし始めた。
フロランスはクロディーヌが怒り出すのではないかとヒヤヒヤしたが、侍女がベケットを睨み付けただけで当のクロディーヌはベケットを完全に無視して「籠に洗濯物を詰めなさい」と侍女に指示を出した。
大きな籠を抱えて納屋から古城へ帰る途上で、フロランスは微妙な気持ちになった。
フロランスの隣にいる侍女はフロランスと同じく洗濯物の詰まった籠を持って黙々と歩いている。そしてフロランスと侍女の前にはクロディーヌが――もちろん手ぶらで――二人を先導するかのように悠然と歩いていた。
しかもクロディーヌはフロランスの調査でもするかのように根掘り葉掘り質問をしてくる。
肉体的には昨日よりも断然楽だが、精神的には緊張が続く。
「……それで、グレゴワールさんは私を王都へ誘って下さって」
「ふうん、そうだったの。グレゴワール様はあなたを哀れんで拾いあげたということなのね。なぜただの田舎娘を、と不思議だったのだけれど納得したわ」
「はい……」
フロランスは小さく返事をした。クロディーヌの言うとおりだと思ってはいたのに、改めて他人に指摘されると偉大なグレゴワールとの距離がもの寂しく感じる。
クロディーヌは優しい声色で慰めるように言った。
「グレゴワール様に助けて頂いてよかったわね。それにあなたのことはグレゴワール様が幸せにするって、約束は守ってもらえるわ。きっとあなたに見合った素敵な旦那様も紹介して下さるでしょうよ」
「……はい」
フロランスの気分がまた一段沈んだ。
素敵な旦那様、と心の中で呟いてもまったく素敵な気分にはなれなかった。
「そして、グレゴワール様のことはわたくしが幸せにするの。だからあなたはなにも気にしないでいいのよ」
クロディーヌは幸福そうに微笑んで肩越しにちらりとフロランスを見た。アリゼのような嫌味な笑顔ではなかったのに、フロランスは言葉を失って、小さく頷くのが精一杯になった。
(私、……)
グレゴワールが幸せになれるならばそれでいいではないか、そう思うのになぜか素直に応援できない。フロランスはモヤモヤした気持ちを抱えながら古城へ向かって足を動かした。
一方のクロディーヌは妙に上機嫌で質問し続ける。
「それで。村を出たかったのはわかったけれど、どうしてわざわざ王都へ?」
「そのう、祖父が王都にいるかもしれなくて」
「あら? あなた村娘なんでしょう。なぜお祖父さんが王都にいるのよ」
クロディーヌの疑問はもっともだった。普通、村人の親もそのまた親も、あるいはそのまた親も、近隣の村出身であって、遙か彼方の王都出身であるということはまずありえない。
フロランスは心に渦巻く負の感情でぼうっとしながら適当に返事をした。
「祖父は説教師だったんです。それで各地を巡っている間に祖母と出会って、クレドーで結婚をして……」
「あら、説教師? まさかあなた、デフロット老師の関係者なの?」
「えっ!?」
急に出てきたデフロットの名前にフロランスはぎょっとして飛び上がった。冷や汗が出て、心に溜まった感情が一気に吹き飛ぶ。
フロランスが恐る恐る前を見ると、クロディーヌが探るような目でフロランスを見つめていた。




