26.そのころの村では
アランの父、ジャックは黙ってエールをあおっていた。テーブルの向かい側ではヴァンサンがエールを飲んでいる。ヴァンサンは左頬を腫らし、酷い顔で疲れた様子だった。左頬の腫れは、ジャックがアランの代わりにヴァンサンを殴ったから出来たものである。
ジャックの妻は憔悴しきったエリーズを慰めに行っている。アランも数日前に村を出て今は親方の家に住み込んでいた。ここ、ジャックの家には今は二人しかおらず静かなものであった。
ヴァンサンが机に突っ伏した。ジャックはそれをちらりと見て、空になったヴァンサンのタンカードにエールを注いでやった。
五日ほど前から村では騒ぎが続いていた。
まず始めにフロランスがいなくなった。
聞けばフロランスはあの魔物のような魔術師と王都へ向かったということで、皆は前代未聞の冒険か大出世かというように騒いだ。多くの者はただ驚愕し、一部の者は村娘にあるまじきことだと批判し、一部は上手くいかないだろうと嘲笑し、一部は心配した。
だが、本当に騒ぎになったのはその後だった。
フロランスがクレドーを出たその日、アリゼは村へ帰ってこなかったのだ。しかもフロランスと違って居場所がわからなかった。酒場も前日に辞めてしまっており、村の男はおろかアランも居場所を知らなかった。
「アラン。おめえ、アリゼとなにかあったな」
仕事を終えてクレドーから帰ってきたアランの様子がおかしいと真っ先に気がついたのはジャックだった。アランの表情は妙に硬く、アリゼの居場所がわからないと告げられるとその顔はますます強ばっていた。
夜、村長の家に男衆が集まっている中でそう問うと、ヴァンサンが懇願するように叫んだ。
「アラン、なにか知ってるのか? 頼む、なんでもいいから教えてくれ!」
「……ヴァンサンさん、アリゼは王都へ行きたがっていると聞いたのですが」
苦しそうなアランの言葉にジャックは内心とても驚いた。
若者が王都へ行きたがるのは珍しいことではない。しかしアリゼはアランの婚約者だ。アランは当分の間、クレドーの親方の元から離れることはできない。アランとの結婚を望むアリゼが王都行きを切望しているというのは奇妙な話だった。
ところが、ジャックはヴァンサンの返答にますます驚くこととなった。
「ああ、その話か。確かにその通りだ。……まさか、アリゼは王都へ向かったのか!?」
村の若い男衆が大声で騒ぎ始めた。アリゼは王軍の男に拐かされたに違いない、アリゼは自分たちと共にあるべきだと言い立てる。
だがジャックが驚いたのはアリゼの王都行きではなくヴァンサンのその態度だった。ヴァンサンは何事もないかのようにアリゼが王都へ行きたがっていることを肯定したのだ。
(……どうなってんだ。うちのせがれとアリゼが婚約してること、忘れてやがんのか)
結婚も婚約も村人が自由に行えるものではない。代官の許可があって始めて成り立つものであって、簡単に取り消せるものでもない。
婚約者のいる自分の娘が婚約者から離れたいだのと言い出した場合は、普通の父親であれば叱り、あるいはなだめ諭すだろう。しかしヴァンサンはなんでもないかのように「ああ、その話か」と言う。
だがなにか事情があるのかもしれないし、今はアリゼの身の安全が最も大事である。
ジャックはヴァンサンを問いただすことなく、その日は終わった。
翌朝、何人かの村人とヴァンサンはクレドーへ出かけアリゼのことを聞いて回った。結果、一人の大工が代官の屋敷へ入っていくアリゼを見たことがわかった。
代官の息子がアリゼを監禁したのではないか。
そう考えたヴァンサンと村人はアリゼを返してくれと代官に直訴しに行った。
しかし代官は息子のせいではないと言うばかりで、しかしアリゼの行方に関しては言葉を濁す。
すったもんだの挙げ句、代官は言葉をぼやかしながらも、その代官屋敷には貴人が泊まっているのだと説明した。貴人の名前については頑として口を開かなかった。
結局、アリゼはクレドーの代官屋敷におり、無事であるということしかわからなかった。エリーズは心配し、嘆き悲しんだ。
その日、アランは自分も村を出てクレドーの鍛冶屋の親方の家に住み込むと告げた。既に親方と話はついているのだという。もともと弟子は親方の家に住み込むのが普通だったからおかしな話ではない。
村の男衆は、アランがアリゼを取り返すために拠点をクレドーへ移すのだと考えた。
だが、本当はそうではないということは、アランの顔色を見たジャックと妻には明白だった。
荷造りをするアランに、ジャックの妻は尋ねた。
「アリゼは、自分の意思で代官屋敷へ行ったのね?」
アランは動きを止めて沈黙した後、しばらくして小さく頷いた。状況を理解するにはそれで充分だった。
――アリゼは王都へ行きたがっていた。アリゼは自分の意思で貴人と共にいる。アランの顔色が悪い。
これらの事実をつなげて考えれば、アランはアリゼに捨てられたのだと考えるのが自然だった。しかも、代官の力も及ばぬような貴族の力を以て。
そうなった以上はアランも村には居にくいだろう。
ジャックと妻、それにアランの兄は皆でアランをクレドーまで送り届けた。
それから二日して、浮き足立っていた村は再び大騒ぎになった。
なにせ唐突に、ローアンヌ地方の大領主ジョスラン家の若者――マクシム・ジョスランが村へ視察に来たのだ。アリゼを連れて。
「私、マクシム様と結婚するの」
青ざめた村長に接待されているマクシムを遠目に見つめながら、アリゼはうっとりと言う。
「妄想じゃないわ。ちゃんと確約して頂いたもの。それに……ほら、婚約の証ですって」
アリゼは大きな宝石を鏤めた宝石を嬉しそうに見せびらかした。
ヴァンサンとエリーズは絶句し、他の村人たちも言葉を失った。
アランの婚約者であったはずのアリゼが他の男と二重に婚約した。通常では許されぬ重罪だ。だが相手はそもそもジョスラン家、ジョスラン家が白と言えば黒いカラスも白となるのが当たり前だから文句を言えるはずもない。
美人といえどただの村娘が大貴族の一族と、しかも恐ろしく美形で有能な男と結婚するというのも衝撃的だった。夢物語としか思えなかった。
更に言えば、女などよりどりみどりであろうマクシムが村をいくつも買い上げることができそうな宝飾品を与えるほどアリゼに真剣であるということが驚きであった。
マクシムは視察を終えたのち、「アリゼはトゥールの我が家へ連れて行く」とだけ言って、当然のようにアリゼを馬に乗せて帰って行った。
「なんだアランのやつ捨てられたのかよ」
「……仕方ねえな、ありゃ俺らだってかなわねえだろ」
「ああーアリゼちゃんがいなくなるなんて嫌だ!」
村の若衆はがっかりして口々に言う。
後に残されたのは緊張のあまり息も絶え絶えになっている村長と、愕然としているヴァンサンとエリーズだった。
ヴァンサンが机に突っ伏したまま呻いた。
「なんでだ……アリゼまで……ひっく、いなくなった! ジョスラン家の一族なんて……、いくらアリゼでも無理だ! あの子は美人で良い子だ、だが村娘なんだぞ……」
ヴァンサンもエリーズも、アリゼがマクシムの元へ行ったことを玉の輿だと安易に喜んだりはしなかった。むしろ懸念した。弄ばれて捨てられるのではないかと。
アリゼは「どうなっても惨めな思いはしないようにしてくださるのよ、私の生活は保障されているわ」と自信ありげだったが、充分に年を経た大人には、貴族が村人にする保障などなんの意味もないとわかっている。
ヴァンサンはわめいた。
「どうしてこうなったんだ……フロランスが……あの子が村から出たから……アリゼも悪影響を受けたんだ! あの子が、あの子が……クレドーになんか行くからアリゼが真似をしたんだ! ジャックだって俺の気持ちがわかるだろう? アランがお前の跡を継がずにクレドーの鍛冶屋に行ってしまって、村にいればいいものを」
顔を歪めるヴァンサンに、ジャックはため息をついた。
「せがれを家から追い出したのは俺だ」
「な……なんでだ!? アランは子供のころから腕が良かっただろう」
ヴァンサンの驚きは無理もなかった。
この村は少しずつ人数が増えており、唯一の鍛冶屋であるジャックの家は人手が不足気味だ。ジャックの長男――アランの兄はジャックの跡取りであるとしても、アランにも家業を継がせ、村で二件目の鍛冶屋として育てても良かったはずだ。
ジャックは鼻を鳴らした。
「腕が良かったからだ。こんな村にいるよりゃあクレドーに行かせた方が将来がある」
村で腕利きの鍛冶屋になれば生活は安定するだろうが、先はしれている。だがクレドーの鍛冶屋で成功すれば、上手くいけば貴族のお抱えになることができるかもしれない。
だからジャックはアランには家を継がせなかった。その代わりにクレドーの鍛冶ギルドに足を運び、アランが良い親方に弟子入りできるように話をつけた。その事実はジャックの妻と長男しか知らないことである。
ヴァンサンとは違うのだとジャックが言外に告げると、ヴァンサンはしばし黙った。が、口の中でぶつぶつ呟いたかと思うと、身を起こして両手で顔を覆った。
「そうか……ならフロランスだけか、問題なのは。すまない、ジャック。アリゼを嫁がせられると思ったのに。お前たちをぬか喜びさせた」
ジャックはタンカードをテーブルに置くと、ぼそりと言った。
「俺たちはこの婚約に反対していた」
「……は。アリゼとアランの婚約のことだぞ?」
ジャックは面倒臭そうに頷いた。
ヴァンサンは目を見開いて、それから頭を横に振った。
「いや、気を遣ってくれなくていい。悪いのは俺たちの方だ」
「気を遣ってんじぇねえ、勘違いすんな」
「お前は反対していなかっただろう?」
「カカアがよ、アランがアリゼを好いてる以上は反対したって仕方ねえだろうってよ。俺もその通りと思っただけよ。あいつもフロランスを気に入ってたんだがな」
「な……アリゼよりフロランスがいいって、どうしてだ? あの子は体は丈夫だが失敗も多いしアリゼほど気立ても優しくない、不器用だし、それに……」
ジャックは手を振ってヴァンサンを遮った。
「いつからだ?」
「は」
「昔はフロランスをそんなに悪かぁ言わなかっただろうがよ。いつからそう思うようになった。おめえさんとカロルの娘だろうが、可愛くねえのか?」
「そんなわけないだろう。だが盲目的に可愛がるのは違う、欠点があるならそれを矯正してやるのも親ってもんだ」
困惑したように答えるヴァンサンに、ジャックは鼻を鳴らした。
「その欠点は本物か?」
「どういう意味だ」
「本当に、そこまで言うほどの欠点があんのか、って聞いてんだ。俺が知ってるフロランスは普通の娘っこだ。少なくともガキんころはそうだったろう。おめえさんだって少なくともカロルが生きてたころはそう思ってただろうがよ。それが大人になって突然欠点だらけの怠惰な女になりやがんのか」
ヴァンサンはぽかんとして、徐々にその表情を強ばらせた。
ジャックはまたエールをあおり、ぐいと口元を吹いてからじろりとヴァンサンを見た。
「娘を蔑んで見下してんじゃねえのか。おめえさん、いつの間にそんなに偉くなったんだ」
「い、や……そんなつもりでは」
「今のおめえさんにならカロルは惚れねえだろうよ」
ヴァンサンはぐっと詰まった。ジャックはそれを眺めながらカロルのことを思い出していた。
カロルはヘーゼル色の美しい瞳を持った聡明な娘で、しかしそれを鼻にかけない気さくさと太陽のような明るさがあって、クレドーでは人気があった。
だがカロルには頼れる父親がおらず、そこにつけ込んで無理に関係を迫る男がいた。
ある日、村からクレドーへ来ていたヴァンサンがそんな男からカロルを助けたのが彼らの馴れ初めだった。
ヴァンサンはどこにでも居るような凡庸な村の男で、健康で頑丈な体はしていたが、ハンサムでもなければ頭が良かったわけでもない。誰もがカロルとヴァンサンは似つかわしくないと思っていた。
だがカロルはヴァンサンと過ごす時間を好んだ。
ヴァンサンもカロルに惚れ込んで、カロルの話を聞くのが好きなのだ、知らないことをたくさん教えてもらえる、世界が広がっていくと村で頻繁に惚気ていた。
ヴァンサンのことを嫉み、カロルになおも言い寄る男もいた。だがカロルはそんな男を歯牙にもかけず、結局、カロルとヴァンサンは結婚し、カロルはクレドーから村へ嫁いできたのである。
「俺ぁな、若けえころにカロルに聞いたことがあんだ。ヴァンサンなんかのどこが好きなんだってな」
それは素直な疑問だった。当時既に結婚していたジャックとその妻のように見合いだったというならまだわかるが、彼らは恋愛結婚だった。
「そしたらこう言った。男ってやつぁ妙にプライドが高けえのがいる、そんで俺様の方が頭がいいと張り合ってくるやつやカロルに蘊蓄を語って何から何まで教えてやろうとしてくる面倒くせえヤツも多い、そんなのにはうんざりだ。だがヴァンサンはそうじゃねえ。俺は頭が悪いからとカロルの言葉を素直に聞き、だが自分を卑下するでもねえ、媚びへつらうでもねえ、そんな真っ直ぐなとこが好きだ、一緒にいると安心すると言いやがった」
少し照れながら、しかし真っ直ぐにジャックを見つめて言ったカロルの姿は強烈な印象となって記憶に残っている。
ジャックが目を上げると、ヴァンサンは凍り付いたようになっていた。
「そんで、今のおめえさんはどうだ。まるで嫌味な貴族どもみてえに偉そぶりやがって、女に学は必要ねえっつって叫んでんのも聞こえたぞ。それはカロルに対してのあてつけか?」
「違う! そんな、俺は……」
「じゃあなんだってんだ」
「……」
ヴァンサンの顔色はますます悪くなった。
ジャックはヴァンサンのタンカードにもう一杯エールを注いでやった。
「女に学は必要ねえ、だあ? んなこと昔のおめえさんは思ってなかっただろうがよ。おめえさんがおかしくなったのはエリーズと結婚してからだ」
「そんな、エリーズは悪くない」
「あたりめえだ、悪いのはおめえさんだ。ヴァンサン、おめえさんは素直だな、今も素直だよ。だが素直になる相手を間違えてるんじゃねえのか。悪党に素直に従ったら自分も悪党になる。俺が言ってる意味、わかるか?」
「……ああ」
「いつからフロランスをダメな娘だと思い始めた? いつからそう信じるようになった。素直なおめえさんがそう思うようになったのはなぜだ?」
「それは……」
ヴァンサンは呻いた。
――義姉さんはなにもできなくて可哀想。
――義姉さんは不器用なのよ。
――義姉さんはダメだから、導いてあげなきゃ。
――心配しているだけよ?
アリゼの言葉がぐるぐると脳内を巡る。
ジャックはヴァンサンが話し出すのを根気強く待った。
一時間ほどしてジャックが家のエールをすっかり呑み尽くしたころに、ようやくヴァンサンは口を開いた。
「エリーズも、アリゼも……あのままだったら、おかしくなると思ったんだ」
「おかしくなる? なんのことだ」
「村に馴染めていなかっただろう? 覚えているか」
「ああ、再婚したばかりんころはエリーズもアリゼも居心地悪そうにしてたな。ありゃあなにがあったんだ?」
ヴァンサンは顔を歪めて噛みしめるように言った。
「カロルは村の皆に慕われて、学があったからここぞというときに頼られただろう。エリーズがここへ来たころにな、村の人がエリーズも字が読めるんじゃないかと期待して、いろんなやつがよく尋ねて来たんだ」
村人の大半は字が読めない。読めたとしても簡単なものだけだ。だから読み書きの上手なカロルの存在は貴重だった。時には隣の村からカロルに助けを求めに来た者もいた。
村人は、エリーズにカロルのような役割を期待していたわけではない。普通の村の女で字が読める者はまずいないからだ。だが聡明なカロルを好んだヴァンサンの後妻だ、エリーズももしかしたら字が読めるかもしれない。そんな軽い考えでエリーズに、字が読めるのか、これは書けるか、あれはどういう意味なのか知ってるか、そう尋ねる者が大勢いた。
「それを、エリーズが気に病んだんだ。もともとあの通り気は弱い……それに、アリゼもだ。字が書けないことをフロランスと比べられてつらい、そう言って泣いた」
綺麗で大人しいアリゼがぽろぽろと涙をこぼして訴えたのはヴァンサンには衝撃だった。
村の大人も子供も、エリーズやアリゼを卑下したわけでもなければカロルやフロランスと比べたつもりもなかっただろう。だが字が読めるのかと聞かれるたびに、エリーズやアリゼはカロルやフロランスと比べられているように感じたのだろう。
ジャックは鼻の頭を掻いた。
「そいつは悪いことをしたな。俺たちゃあエリーズもアリゼも歓迎してたんだがよ。カロルを亡くしたときのおめえさんは見てられねえもんだった、だから家族が増えるのはいいっつってみんな喜んでたんだがな。おめえさんはカロルのもんもほとんど燃やしちまって、まるで自分も死に行くつもりみてえに見えてたんだ」
「……違う、あれはカロルがそうしてくれと言ったからなんだ」
「へえ、そうかい。まあどっちでもいい、それで……なんだ。女に学はいらねえっつうのは、エリーズとアリゼのためだったってことか」
ヴァンサンは暗い顔で頷いた。
「俺は、エリーズとアリゼを大切にしてやりたかったんだ」
「そいつはいいことだ。だがな、そんで二人を庇った結果フロランスを犠牲にしたっつうのか。おめえさんは間違えたんだよ、なあ?」
「……」
「もうわかってんだろうがよ。アリゼはおめえさんが思うような気立ての優しい、いい娘っこなんかじゃねえ。優しい娘が婚約者を一方的に捨てるわけがねえ」
ヴァンサンは頭に手を当てて机に顔を伏せ、動かなくなった。
この話がずっと書きたかった。
<人物紹介>
○ジャック
アランの父親。村の鍛治屋。ヴァンサンの友人。




