25.長い1日の終わり
誰かに頭を撫でられている。
フロランスが瞼を持ち上げると近くにグレゴワールが座っているのが朧気に見えた。
グレゴワールの顔色は相変わらず土気色だが穏やかな表情をしていた。優しい手つきでフロランスの髪を梳き、額にかかった一筋を丁寧に横へ払う。
その仕草を目で追っていると、きゅう、とお腹が鳴った。
(……晩ご飯、食べてなかったなあ)
疲れ果てて大広間にたどり着いてからの記憶がない。寝台に横たわる体はほかほかと温かく、静かな波に揺られているような意識は朦朧としている。
グレゴワールは料理の乗った盆を寝台脇の低い卓に乗せ、そこから一皿取ってフロランスに近づけた。
「食べられるかい? 焼きリンゴだヨ」
グレゴワールは赤いリンゴが焼かれて琥珀色になったのを器用に片手で切り分け、フォークに刺してフロランスの口元へ差し出す。
フロランスは緩慢な動作でこっくり頷き、口を開けた。焼きリンゴの欠片が中へ入ってくる。舌の上に乗ったそれはほっくりと甘く、微かなシナモンの香りが鼻孔へ抜ける。
しばらく無言でもぐもぐと口を動かしているうちに、あっという間に焼きリンゴはなくなった。
グレゴワールは別の木椀を手にした。
「ミルク粥はどう?」
「……ほしいです」
グレゴワールはニタリと笑ってひと匙掬うと、ふうふうと息で冷ましてからフロランスの口に流し込んだ。牛の乳で甘く煮られた麦は香ばしく、上にかかっているナッツはさくさくと食感が良い。
ミルク粥を食べ終わってからも、グリルした野菜や煮豆、千切ったパンなどが差し出される。
腹が満ちるにつれてフロランスの意識は覚醒していった。フロランスがいるのは朝寝ていたのと同じ部屋で、銀の燭台に豪勢に蝋燭が刺してある。
(……あれ?)
目の前でグレゴワールがニタニタしながらパンの欠片を向けてくる。フロランスはとっさに口を開けようとして――ぱくりと閉じた。
(い、今……私、なにしようとした?)
グレゴワールの手から食事をしようとしていなかったか。まるで恋人同士がするあの行為……。
フロランスがコチンと硬直していると、グレゴワールは首に掌を当てて傾げた。
「ウン? どうしたんだい、フロランス」
「あの、グレゴワールさんはなにしてるんですか?」
「なにって……『あーん』?」
「――――っ!?」
フロランスは声にならない叫び声をあげて寝台の反対側に転がり落ちた。そのとたん、右足に強烈な痛みが走って引き攣る。驚いて体を丸めたせいでドレッサーの角に頭をゴツンとぶつけた。
「いっ」
「攣ったんだネ。疲れているとなりやすいんだ」
グレゴワールは寝台をぐるっと回ってフロランスの側にしゃがみ込み、スカートの裾から出ている右のふくらはぎに大きな手を当てた。
白い光と緩やかな温かさがふくらはぎを包み込み、瞬く間に痛みは消えていった。
「うう……ありがとうございうひゃあっ!」
「フフ、動かないで」
グレゴワールはフロランスを横抱きにして寝台に戻し、再び寝台横の椅子に腰掛けた。
フロランスは寝台の上で目を白黒させた。先ほどまでの眠気はどこへやら、頭はすっかり覚醒して冷や汗が出てきた。
(えっと、大広間で居眠りして、運ばれて、グレゴワールさんにあーん……――っ)
フロランスは真っ赤になって呻いた。恥ずかしすぎる。グレゴワールは全くのいつも通りで、一人で恥ずかしがっているというのが更に恥ずかしく感じる。相手に何気なく「あーん」をしてしまえるグレゴワールが恐ろしい。
フロランスは羞恥心を誤魔化したくて小声で文句を言った。
「もう、女誑しなんだから」
「……?」
「なんでもないです。あの、ありがとうございました。運んでもらって、しかも食事まで。ごめんなさい、また迷惑をかけてしまって」
「迷惑なんかじゃないヨ。むしろ私こそキミに過剰な負担を掛けてしまった。こんなに疲れ切って」
「そんなこと! まだ仕事に慣れてないから眠ってしまっただけです」
「一日中走り回っていてくれたんだろう? だからこちらこそ、ありがとう」
グレゴワールは微笑んでフロランスをのぞき込む。間近で目が合った。フロランスは息をするのを忘れてぼうっとグレゴワールを見つめた。
不思議な感覚だった。こうしていると、心の底にこびり付いている負の感情が溶かされて消えていくようだ。ただ心の中を温かいものが満たしていく。
「グレゴワールさん……私、明日からも頑張りますね」
「どこへ行くつもりだい?」
ベッドから起き上がろうとしたフロランスはグレゴワールに押しとどめられた。
「足の痛みが引いたので、自分の部屋に戻ろうかと。あれ、そういえば私の部屋はどこに――」
「ここだヨ」
「ん?」
グレゴワールは床を指さしている。
「ここはグレゴワールさんの部屋なのでは?」
「もともとはネ。でも一番安全だし一番綺麗だからフロランスの部屋にしよう」
「なっ……ならグレゴワールさんはどうするんですか!」
「私はいつも研究室の床で寝るからいいんだ。仕事に夢中になるとつい、ネ」
グレゴワールは自分の生活には無頓着なタイプであるらしい。
フロランスはなんとなく納得した。顔色が悪いせいか、あるいは魔物めいた見た目のせいか、偏見ではあるのだが――もとより正しい生活をしているようには見えなかった。
グレゴワールは言い訳をするように言いつのった。
「この部屋は全く使ってなかったんだヨ。だから遠慮しないで使ってほしい」
「でも、魔術師様ならともかく、雑用係がこんな贅沢な部屋を使うなんて」
「その雑用係が第五部隊では貴重なんだヨ。フロランスもいろいろ聞いただろう?」
フロランスは昼間に同じ雑用係の女の子たちに言われたことを思い出して目を伏せた。思い出すだけで腹が立つし、少し悲しくもある。
グレゴワールはそっとフロランスの頬に触れた。
「さあ、今日の健康診断をしよう。手は直したけれど、あちこち痛むだろう」
「あっ……ありがとうございます」
ぴりっと刺激が全身に走る。フロランスははっと息を呑んで背を反らした。健康診断されることには慣れたがこの刺激にはなかなか慣れない。
「少し痺れるのは健康な証拠なんだヨ。人間は誰しも独自の魔力を持っていて、基本的には他人の魔力と反発するんだ」
曰く、グレゴワールがフロランスの体内に糸のように細く流した魔力にフロランスの魔力が反発してそれが痺れとなっているらしい。体のどこかが傷ついているときはそこに上手く自分の魔力が流れなくなってしまうため、その部分へ他人が魔力を流しても反発が起きず痺れも発生しない。
グレゴワールは親指でフロランスの頬を撫でた。
「つまり反発の有無で健康状態を探っているということなんだ……フム、両足首、左足のふくらはぎも炎症を起こしている。痛むんじゃないかい?」
「……はい」
「無理をしたネ」
「ごめんなさい」
「責めているんじゃないヨ。謝るのは私たちの方だから。スカート、少し巻くっていいかい」
「はい」
グレゴワールは丁寧に、ほんのわずかばかりスカートの布地を持ち上げると足に掌を当てた。瞬く間に左足も痛みが引いていく。
「フロランス。洗濯物は山になっているだろうけれど、腐るものでもないし急がなくていいんだからネ」
「でも急がないと休みが……あ」
「休み?」
「そのう……納屋が一つ、第五部隊の洗濯物でいっぱいになっていまして。それが片付くまで休みはなしと言われてしまって」
フロランスは俯いてごにょごにょと言った。まるでグレゴワールと出かけることを催促しているようではないか、そう思って口ごもったが、グレゴワールは特に気にするでもなく「フム」と言った。
「あと数日すれば私も雑用を片付けられるんだけれどネ。手伝いが必要だな……そうか、それなら試作した自動擬躰を使」
「それはダメー!! いえその、私はもう大丈夫なんですけれど、に、苦手な人が洗い場には多いみたいで! 混乱しそうなので!!」
フロランスが必死で首を横に振るとグレゴワールは首を傾けた。
「ウーン、そうかい? それなら別の方法で……ジュールがなにか言っていたような……?」
ブツブツ呟きながら考えるグレゴワールの姿は相変わらず不気味さ満点で、しかし彼がフロランスのためにあれこれ思案してくれているのだと思うとフロランスの心はぽうっと温かくなった。
これが村だったら、両親に「休みのために無理して体を痛めるなんて」と責められ、あるいはアリゼに「義姉さんは不器用だから」と困ったように微笑まれて終わりだっただろう。アリゼの取り巻きたちに要領が悪い役立たずと言われて終わりだっただろう。あるいはアランやティエリならフロランスを心配してくれただろう、けれども実際に救いの手を差し出されることはほとんどなかった。助けようがなかったからかもしれないが。
でもグレゴワールは実際に助けてくれる。実際に助けるための方法を考えてくれる。
それで充分だった。
「グレゴワールさん、私なら大丈夫です。一人でなんとかします」
「いや、やはり人手を割こう。ジュールを手伝わせるヨ」
「いいんですか?」
「ウン。……フロランス、苦労をかけてごめんネ」
フロランスは首を横に振った。
「いいえ、こんなの苦労なんかじゃないです。理不尽なんかじゃない。むしろ……私、すごく幸せなんです。疲れても、体が痛くても。おかしいですよね」
フロランスはグレゴワールに微笑んだ。
あの日、グレゴワールと出会ってから約十日。たった十日でフロランスは遠く離れた王都までやってきて、失望と諦観と微かな望みの中で必死にあらがうだけだったのが、今やこれほどにも希望に満ちた穏やかな気持ちでいる。
「ほんと……不思議なものですね」
じわりと目の前が滲む。
第五部隊の隊員たちは予想以上に奇妙奇天烈で、古城の生活は気味悪くて刺激的で、雑用の仕事も想像を遙かに超えた大変なものだった。
けれどもそれはフロランスの人格も希望も否定しはしない。
(……こんな穏やかな日が来るとは思わなかった)
居場所が欲しい、認めて欲しい、祖父に会いたい、王都に行けば、祖父にさえ会えれば、そんな思いで片肘張って、虚勢を張って生きてきたのが嘘みたいに思える。
ぽろりと目尻から溢れたひとしずくを、グレゴワールは人差し指で拭った。
「すみません。なんだか私、涙もろくなってしまいました」
「いいんだヨ。泣きたいときは泣けばいい」
「……はい」
自然とグレゴワールに抱き寄せられるようになって、フロランスはハーブのような香りがするグレゴワールのローブに顔を埋めた。
***
グレゴワールに抱き寄せられていたフロランスはそのまま寝てしまったようで、グレゴワールがそっと彼女の体をベッドに横たえていた。
グレゴワールはフロランスに毛布をかけ、髪の毛を整え、とせっせと世話をしている。
廊下より、グレゴワールの部屋の扉の隙間から様子をうかがっていたギーが「うわーお」と呟いた。ギーの後ろから同じく部屋の中の様子を感知していたヴェロニック・マルソーは「シーッ」と唇に指を当て、ヴェロニックの隣にいたブロッコリーが両手で自分の口を塞いだ。
「音を立てたらばれるわよ!」
「どうせ魔力感知でバレバレですよお」
「グレゴワールにじゃないわよ、フロランスちゃんに、よ」
三人で頭を寄せ合って小さな声でヒソヒソと会話をする。
「見た? なんなのあれ、ただのバカップルじゃない」
「ですよねえ。でもグレゴワールさん、『そんなつもりじゃない』って言うんですよお」
「気持ちが変わったのかもしれないよ。それにフロランスさんの方はわかりやすいね」
「ねえ。でもあの子、あれで無自覚なのよ」
「うわーお」
ギーは小さく呟いてニヤリと笑った。ヴェロニックは顔を顰めた。
「笑い事じゃないわよ。ややこしいことになったら面倒じゃない」
「マルソーさんは部隊長とフロランスさんが結婚することには反対なのかい?」
「結婚!? いきなり飛びすぎですよお、ブロッコリーさん」
「あの子となら交際でも結婚でもすればいいけどね、私が嫌なのはあのブロンダンの暇人娘が騒ぎそうってことよ」
ブロッコリーが頭を傾げた。ゆさっと緑頭が揺れ、重量の通りに地面に向かって垂れる。
「今朝の様子を見ると部隊長がなんとかしそうだと思うけれどねえ」
「あの娘だけならいいけれど、問題はその後ろにいる貴族どもよ」
「ただでさえ第五部隊はかなり微妙な立ち位置ですもんねえ、政治的に」
そんなことを話していると、いきなりギイッと扉が開いた。グレゴワールは三人の姿を見ても特に驚いた風はなかった。
「待たせたようだネ。どうしたんだい」
「フロランスちゃんの様子を見に来ただけよ」
「私は昼間の屍木のことを謝ろうと思って……もう寝てしまったのか。なら明日にしよう」
「僕は……ヴェロニックさんの付き添いでーす! ってそれはいいんですよ、それより!」
ギーは部屋の扉を閉めるとニヤニヤしながらグレゴワールに詰め寄った。
「グレゴワールさん、フロランスさんをどう思っているんですか? 一番幸せにしたいってなんなんですかあ」
「そのまんまの意味だヨ」
「それじゃわからないですよお! 恋人にしたいと思ってるんじゃないならなんなんですか」
「ウーン、そうだなあ」
グレゴワールはしばし考えて、それからニタリと笑った。
「フロランスのことは大事な孫みたいに思ってるヨ」
「孫ぉ!?」
ヴェロニックが思わずというように大声を出して慌てて口を噤んだ。声が裏返っていた。
ニヤニヤしていたギーはぽかんと口を開けた。
ブロッコリーは目を泳がせて、混乱したように早口でまくし立てた。
「ま、孫、そうか孫かうん、それならあーんしても自然だね、自然かな? いや自然に違いない、そ、それなら僕は部隊長のとても大事な子を傷つけかけてしまったということですね」
「いや、不慮の小さな事故は防げるようにしているから」
「……ん?」
「え?」
「ハア?」
三人が三様に変な顔をした。
グレゴワールは当たり前だろうという風な顔で廊下を歩き始めた。
「フロランスのお仕着せには特別に守護魔法をかけてあるんだ。まだ試作段階だけどネ」
「……部隊長、そんなものいつ用意したんです?」
「昨日の夜」
「ハアー!?」
ヴェロニックが再び叫ぶのと、グレゴワールがフロランスの方へ防音壁を作るのがほぼ同時だった。




