23.王子様、登場
フロランスはシーツを数枚犠牲にした。掃除をした古城の部屋の床にシーツを敷いて洗濯物置き場を設けたのである。洗濯物を床に直接置くわけにもいかないし、大きなテーブルもないし、やむを得ない。
フロランスが往復するほどに洗濯物置き場は洗濯物で埋まっていった。
「でえい!」
納屋から古城まで一気に駆け抜けた勢いのままに、洗濯物の詰まった籠をシーツの上にひっくり返す。最初は一枚ずつ丁寧に籠から取り出していたが、今やその丁寧さは見るかげもない。どうせ納屋に長い間詰めこまれていた洗濯物だ。丁寧に扱ったところで今更である。
それが終わると籠をつかんでまた納屋へ走る。
ごうん、と鐘が鳴った。
昼時らしい。洗濯係たちは手を止めて、がやがやと話ながら昼餉へ向かう。
納屋でせっせと籠に洗濯物を詰めていたフロランスは、納屋からヨロヨロと這い出ると、水を飲み、納屋の横の草むらに転がった。
(つ、疲れた……)
仰向けになると、王城の南塔のてっぺんで大きな鐘がゆれているのが見えた。真っ青な空に白と灰色の鳩が舞う。
フロランスは深呼吸をした。手には線状に籠の跡が残ってじんじんと痛む。足はまだ大丈夫だがこれほど走り回ったのは始めてで疲れている。
(でも……けなされないものね)
ベッケルには文句を言われたがあれはフロランス個人に対する文句ではないし、フロランスの人格を否定するようなものではない。
びくびくと怯えずに済むことがこれほど楽なのか。貶されたときのために虚勢を張らずにすむことがこれほど楽なのか。
フロランスは大きく息を吐くと、ゆっくり目を閉じた。
「ねえ、大丈夫?」
近くで声がして、フロランスはハッと飛び起きた。いつの間にか居眠りしてしまったらしい。昼休みはそろそろ終わるようで、洗濯係がぱらぱらと洗い場へ戻ってきていた。
フロランスをのぞき込んでいたのは五、六人の女の子たちだった。みなフロランスと年齢が近く、似たようなお仕着せのチュニックとスカートを履いている。
(うわあ、綺麗……)
フロランスは目を丸くした。みな庶民のようで手は荒れていたが、どことなく垢抜けていて素敵な雰囲気がある。身につけている首飾りやリボンもお仕着せによく合っている。
女の子たちは好奇心に満ちた顔で口々に言う。
「見ない顔ね。新入り? 名前は?」
「フロランスです。今日から働き始めたもので」
「やだ、敬語じゃなくていいわよ。雑用係に地位もなにもないし」
「フロランスって東の方の出身?」
「うん、ローアンヌから来たの。よくわかったね」
「少しイントネーションがね。そっれにしても遠くから来たわねえ!」
フロランスは女の子たちの明るさにほっとして微笑んだ。ジョゼと話しているような気分だ。
(友達になれるかな)
同じ雑用係の仲間ができるのは嬉しい。
別の女の子が口を挟んだ。
「遠くから来るって珍しいわね、どんな伝手で来たの? 私は兄が王軍兵舎の管理に関わってるのよ」
「あたしは母さんがもともと王城の下働きだったのよ。だからその縁でね」
「私は全然、そういうのは。たまたま魔術師様に命を助けてもらって、そのご縁で来たんです」
「ええっ!」
女の子たちはどよめいて顔を見合わせた。
「あなた、なんて幸運なの! 伝手があったって宮廷魔術師団で働けるとは限らないのに」
「そうなんですか!? 私、雑用係が足りないからって言われて……」
女の子たちは驚愕し、興奮して一斉に話し出した。 反対に、フロランスはおろおろとした。人手不足と言われていたものだからてっきり人気がない仕事なのかと思っていた。
「人手不足なの? フロランスはどこに所属しているの? 魔術工務部?」
「それは私のとこよ。こっちは足りてるわ、足りてないのは郊外の工務所の方」
「占師衆じゃない? あそこは謎でしょ」
「もしかしてフロランスは占いで選ばれたのかしら?」
「キャー、運命みたい!」
フロランスは頭を横に振った。
「いえ、第五部隊です」
一瞬その場は静まりかえった。
が、一拍置いて女の子たちがどっと笑い出した。
フロランスは予想外の反応に焦った。
「えっ、あの」
「やだあ、田舎から来たばかりなのにもうすっかり王城に馴染んでるじゃない!」
「ね、第五部隊所属なんて王城冗談言えるなんてね!」
「いえ、その」
「もー、それでどこ所属なの?」
「ですから、第五部隊です。本当に」
フロランスは側に置いてあった籠の内側を見せた。籠の縁の内側にはぐるりと黒い線が引かれていて、それは第五部隊の籠であるという印だ。洗濯物が混ざらないように、部署別に籠に色が付けてあるのだ。
「えっ……黒線?」
「うそ」
女の子たちは息を呑むと、顔を引きつらせて身を引いた。ドン引きである。
フロランスはますます焦った。
「あの、なにか変なとこあるの?」
女の子たちは顔を見合わせた。
「なにも知らないのね。あそこじゃ一週間と続かないわよ」
「第五部隊の部隊長、怖すぎるわよ! あの人、魔物の血を引いてるんだって」
「魔物の血?」
フロランスは戸惑っておうむ返しにした。
確かにグレゴワールは魔物のような禍々しい雰囲気を醸し出していることがある。だが魔物の血を引いているとは聞いたことがない。
「私は魔王だって聞いたわ……あの顔色の悪さ、尋常じゃないさよ」
「悪巧みしてそうな顔だしね」
「知ってる? 先王陛下を殺したのはあの部隊長なんだって」
「ええっ!?」
フロランスは大きく叫んだ。
先王陛下、つまり現国王リシャールの父親は二年ほど前に亡くなっている。しかし病死だったはずだ。
別の子が声を潜めた。
「病死っていうのは建前なのよ。本当は部隊長がクーデターを決行したんだって」
「……でも、それならなんでグレゴワールさんは掴まらないんですか」
「そりゃあ証拠がね! それに天才魔術師を捕まえるって、ねえ」
「反・先王陛下派の貴族が裏で手を回したって話もあるのよ」
フロランスは段々と嫌な気分になってきた。魔物や魔王の話も、先王陛下殺害の話も、フロランスからすれば到底信じがたい話だ。
(……なによ)
フロランスはぐっと手を握って感情を抑え、にこっと笑ってみせた。
「そんなことしないですよ。グレゴワールさんは優しい人です」
「えっ……」
フロランスがきっぱり言うと、女の子たちはまた顔を見合わせた。それから、バツが悪そうな、それでいて疑わしそうな目付きをしてフロランスを見る。
微妙な空気が流れた。
女の子の一人がフロランスに向かって思いきり顔を顰めた。
「あの紫色の気持ち悪い人形は使わないでよ」
「……私には操れないので」
「そういう意味じゃないわ。前に、第五部隊の人が洗濯物を運ぶのにアレを大量に操って持ってきたのよ!」
「ほんっとに気持ち悪かったわ! 大変だったのよ、洗濯係の人も逃げちゃうし」
「私、気絶したわ……」
フロランスはぐっと詰まった。
グレゴワールの噂とは違って、こちらは真実の話のようである。おまけに女の子たちの気持ちもよくわかるので反論のしようがない。
ある日、いつものように洗い場へ行ったら紫色の虚ろな目の人間みたいなものがゾロゾロと洗濯物を持ってやってきた。そう想像してみると、阿鼻叫喚になるのもやむをえないだろうという気分になる。
「死んだ熊を操ってきたこともあったわね」
「熊にソリを付けてね。怖いわ、気持ち悪いわ……」
「まったく冗談じゃないわ、第五部隊は変なことばっかりして!」
思い出して腹を立てたらしく、その女の子はまくし立てられるように言う。
フロランスはどう答えようかと逡巡した。
と、そのとき。
どーん、と衝突するような大きな音が響き渡った。あたりはざわつき、しかしみなの視線は音がした方――古城の方へ向いていた。
フロランスはあ然とした。
「な、にあれ……」
古城がある方面、王城の北側の壁の上から緑と紫のまだらになったニョロニョロした長細い何かが三、四本見えている。それはウネウネと動いていたが、やがて身を縮こまらせて壁の下へ消えていった。
みなで茫然とそれを見ていると、ベッケルが顔を真っ赤にして怒鳴り始めた。
「なにぼさっとしてんだい、また死霊術のせいだろうよ! どうせなんてこたないんだ。休憩は終わりだよ、さっさと仕事を始めな!」
女の子たちはちらりとフロランスに視線を投げかけると、なにも言わずに行ってしまった。
フロランスはがっくり肩を落とした。
(また死霊術のせい、って……)
第五部隊はどうやら宮廷魔術師団の中でも変であるらしい。……古城でクレドーの常識が通じないのは、そこが魔術師の世界だからだったのではなく死霊術の世界だったからだ。
フロランスは午後も走り回っていた。だが夕方になると徐々に疲労も増し、ついには手だけではなく足も痛くなってきた。
仕方なく、籠を掴むのではなく抱えるようにして全身で支え、ゆっくりと歩きながら北門を通り抜けた。
古城の敷地には鬱蒼と樹木が生え、朝は東から光が入っていたものの夕方になるとあたりは暗かった。おまけに木や古城の側面に蔦が絡みつき、枝から苔がだらりと垂れていたりして、雰囲気がどことなく不気味で、納得の魔王城である。
フロランスは立ち止まって籠を抱え直し、再び歩き出した。籠が今までよりも重く感じてフラフラする。
(もっと洗濯物を減らせばよかった)
一瞬、納屋に戻ろうかと思ったがここまで来たのであれば我慢して古城へ向かう方が早い。
フロランスはため息をついて足をできるだけ早く動かした。
「あっ、うわあっ」
石を踏んでバランスを崩す。ぐらりと体が傾いて、籠の中身が出そうになった。
(洗濯物が汚れるー!)
とっさに両腕を伸ばして籠を水平に保った。その結果、地面に手をつくことなどできず、このまま行けば地面に顔から衝突する。お仕着せも泥だらけになるだろう。でも洗濯物が地面に散らばるよりはマシに思えた。
フロランスはぎゅっと目を瞑った。
と、籠を横からぐいと押された。フロランスはすかさず踏ん張って、なんとか体制を立て直す。
洗濯物の籠は誰かが持ってくれていた。
「大丈夫かい?」
見上げたフロランスはぽかんとした。
「お、王子様……?」
そこにいたのはすらりと背の高い青年だった。年の頃はグレゴワールと同じ二十代半ばほどだろうか、乱れもなく整えられた柔らかそうな髪は焦げ茶色、顔立ちは優しげな眉目秀麗で、青灰色のローブをきっちりと着こんでいた。宮廷魔術師だろう。
その青年はくすっと笑った。
「あはは、王子様だなんて光栄だね。でも殿下はまだ11歳だよ」
「す、すみません……その、本物の王子殿下と間違えたのではなくて、物語に出てくる王子様みたいだなと思って」
フロランスは顔を赤くして口ごもりながら言い訳をした。
村やクレドーにいた男たちとは全く違うタイプだった。優しさ、知性、清潔感、顔立ちや立ち振る舞い、どれをとっても完璧に見えた。まさに理想の王子様という雰囲気だ。
彼は「ありがとう」と言って笑いを納めると、フロランスに籠を渡そうとした。
「キミ、もしかして道に迷ってる? こちらは古城、第五部隊の屯所しかないよ」
「ええ、そこへ運ぶつもりなんです。私、第五部隊の雑用係なので。助けて下さってありがとうございました」
「いいえ、どういた……し……」
フロランスはにっこりと微笑んで籠を受け取ろうとした。
が、その青年は籠をガシッと掴んだまま離さない。見れば、目を見開いて硬直していた。
「あ、あの?」
青年ははっとしてゴホンと咳払いをし、籠から手を離した。
「いやその……笑顔が可愛いな、と」
「えっ!?」
「表情が生き生きしていて宝飾品をも凌駕するような輝かしさがあると思ったんだ」
フロランスが固まっていると、青年は恥ずかしそうに、言い訳するように言った。それからフロランスの手からひょいと籠を取り上げる。
「ごめん、いきなり口説くようなことを言ってしまって。気にしないでくれ。これは私が運ぶよ」
「えっ、なっ、ダメですよ、魔術師様がそんな」
「いいんだよ、大したことじゃないから。それに僕は第五部隊に用があるんだ」
彼は籠を片手に歩いて行ってしまう。フロランスは慌てて彼を追いかけた。
「あの、でも――」
「そんなに心配しなくて大丈夫だよ。それでも気になるなら……そうだな、古城の入り口まで案内しておくれ。知ってるけど」
茶目っ気たっぷりに言う青年に、フロランスは感動すら覚えた。
(お、王子様だ……!)
まさに正統派のかっこよさだった。自分の見た目の良さを自慢したりはせず、気障でもなく、自然と周囲に優しさを振りまいてしまうタイプだ、とフロランスは思った。
彼は隣を歩くフロランスを見下ろした。
「キミはもしかして第五部隊に新しく雇われたフロランスさんかな?」
「はい。どうしてわかったんですか?」
「今朝、ジュール・ブロンダンから聞いたんだ。それにほら、第五部隊には他に雑用係はいないからね」
フロランスは歩きながら青年に頭を下げた。
「改めまして、フロランスです。どうぞよろしくお願いします」
「よろしく、フロランス。僕はアルベール・エルヴェ。宮廷魔術師団、魔術兵軍の第八部隊の副部隊長だよ。そしてジュールの親友でもある」
「ふ……副部隊長様ですか!?」
フロランスは喫驚してつい変な声で叫んでしまった。まさか、グレゴワールやヴェロニック以外の地位の高い人とこれほど簡単に出会うとは思いもしていなかったのである。
枝から垂れる苔というのは正確には苔というより地位類で、サルオガセのようなものを指しています。




