20.お嬢様の襲来1
グレゴワールの役に立ちたい。そんな決意が、第五部隊の真相を前に遠くなった意識を引き戻した。
フロランスは茫然としながらもなんとか気絶を免れた。卒倒しなかった自分を褒めてやりたい、とフロランスは心のどこかで思った。
筋肉男はなにかひらめいたかのような顔でポンと手を打つと、顔を腹筋を手ぬぐいで雑に拭いた。余計に血が広がって惨憺たる有様となった。
「はっはっは、すまん。血まみれはいかんのだったな! 生肉を喰らっているとジョーシキを忘れるんだな、これが」
全く納得できない言い訳である。
くったくのなく笑う筋肉男は一見爽やかだが爛々と輝く目が怖い。おまけにこの男は華奢な魔術師たちの中でひときわ目立つ、厳つい剣士のような体格をしている。ぬうっと目の前に立っていられるだけで圧迫感があった。
「初め、まして。フロランスです」
フロランスは蚊の鳴くような声を絞り出した。
「はっは、我々の生活のサポートを頼んだぞ、フロランス。俺はミュスクル・サングランという」
「……血まみれ筋肉?」
「そうだ。本名は別にあるがややこしすぎて忘れた。筋肉さんとでも呼んでくれ。お近づきの印にお前も生肝、どうだ? こんな細っこい体では雑用をするのも大変だろう」
皿に乗せた真っ赤な生レバーをずいっと差し出されてフロランスはのけぞった。椅子から転げ落ちそうになり、横にいたグレゴワールに腕を抱えられてなんとか体制を立て直す。
グレゴワールが後ろから囁いた。
「ミュスクルは毎朝生のレバーを食べるんだ」
「……人間の、じゃないですよね?」
「……それは犯罪だと思うヨ」
「そ、そうですよね。……私、生肉は食べないので。ありがとうございます、筋肉さん」
フロランスは恐る恐る首を横に振った。ミュスクルは特に気にする風でもなく皿を引っ込め、まじまじとフロランスを見た。
「そうか、これもよくないんだったな。他の子と違ってキミは悲鳴もあげないし気絶もしない、逃げ出しもしない。なかなかタフじゃないか! よかったよかった。俺のせいでまた逃げられたとあっちゃあな!」
「また?」
「たまに夜中に腹減って生肉食ってることもあるから覚えててくれよなあ。血まみれの山賊の亡霊が夜にこの城をうろついてるって騒がれたこともあるんだ! さ、今日も元気に鍛錬場に行ってくるかな」
あっけらかんと言う筋肉男にフロランスは空いた口が塞がらなかった。
***
食堂を出て大広間に戻る頃には、フロランスは多少落ち着きを取り戻していた。なにをどうやって食べたのか、つい先ほどのことも思い出せなかったが、ともかくお腹が一杯になると精神は安定する。幸い、繊細な性格でもない。
前を歩くグレゴワールがフロランスの手を引いて尋ねた。
「フロランス? 大丈夫かい」
「はい。……私、ここがクレドーじゃないことを忘れてました」
ここは王都、しかも魔術師の世界なのだ。
人は火を吹き、風に乗り、怪我を瞬時に治し、死体は動き出す。王侯貴族が跋扈(?)し、洒落た会話と腹の探り合いが飛び交う。そんな世界で田舎の庶民の常識が通じるはずはない。紫色の腕がシャンデリアに刺さっていたところでおかしくはないではないか?
フロランスは都合良く解釈して一人納得した。
「無理していない?」
「大丈夫です。隊員のみなさんも優しいですし」
フロランスが新しい雑用係とわかった後は、みなフロランスを興味津々にじろじろと見る反面、「よろしく」「困ったことがあったら言ってくれ」と声をかけてくれたのである。
――お前はアリゼちゃんとは大違いだな、ブス。
――おお怖っ、優しいアリゼを見習えよ。
――アリゼみてえにちゃんと仕事しろよ、怠け者。
家族や、アリゼや、取り巻きたちの嫌味はほんの数日前まで続いていた。それに比べれば魔王城は断然いい。誰もフロランスを否定しない。貶めることもない。むしろ楽園かも知れない、とまで思う。
村での生活を思い出して嫌な気分になったフロランスは憤然と拳を握った。
「そうですよ、肌が紫だからなんだってんですか!
紫色は無実です。そりゃあちょっと……かなり驚きましたし、まだ慣れませんけど」
グレゴワールは立ち止まって振り向いた。フロランスは立ち止まるのが遅れてグレゴワールの胸にぶつかった。
「――ありがとう、フロランス。私の第五部隊を受け入れてくれて」
「グレゴワールさん……」
フロランスが見上げると、真上のグレゴワールは暗い目に優しい色を乗せて微笑んでいた。
グレゴワールの大きな手がフロランスの髪を優しく撫でる。ときどき耳に触れる指がくすぐったい。
胸に温かいものが宿る。ぎゅうっと、胸が締め付けられた。
フロランスは息が苦しくなって、震える唇を微かに開けた。
そのとき、甲高い女性の声が響いた。
「グレゴワール様、ご機嫌よう。ご無事にお戻りになられてなによりですわ」
目の端に赤が舞って、生肉を思い出したフロランスはとっさにグレゴワールから体を離した。
すると、邪魔だと言わんばかりにフロランスは押しのけられ、グレゴワールとフロランスの間にずいっと真紅のドレスを着た女の子が飛び込んできた。
その女の子はグレゴワールに身を寄せてにっこり微笑んでから、くるりとフロランスの方を向いた。
カールした濃い金髪、ぱっちりと大きな目、濃紺の瞳。深い赤のドレスは絹でできているのかつややかに色を変え、滝のようにたっぷりと裾まで流れている。フロランスと同じ年頃のその女の子は、お人形のようだった。貴族の娘なのだろう、顔立ちだけで言えばアリゼの方が上だが、全身から堂々たる優雅さと迫力が滲み出ていて、おそらくアリゼが隣に並んだところで霞んでしまうだろうと思われた。
女の子はくいっと眉を上げた。
「あら、新しい召使いかしら?」
「第五部隊の補助員ですヨ」
「そう。ならいいわ。せいぜい尽くすことね」
女の子は当然というように言い放つと、もうフロランスに興味をなくしたようでグレゴワールをうっとりと見上げた。
フロランスは女の子の侍女らしき若い女性にぐいぐいと押されてグレゴワールから距離を取らされる。
「あの、ちょっとっ」
「新人でも知らないではすませませんよ。雑用の分際でお嬢様とグレゴワール様の仲を邪魔しないで頂戴」
侍女はフンと鼻を鳴らしてフロランスをひと睨みし、ドレスの女の子の下へ戻っていく。
あっけにとられたフロランスの視界にグレゴワールの背中がうつる。
彼のごく近くに真紅のドレスが揺れているのが見えて、フロランスの胸はずきりと痛んだ。女の子がグレゴワールに抱きついているようにも見えた。
「やあだ、また来たのね。懲りないわねえあの暇人娘は」
冷ややかな声に振り向けば、ヴェロニックが嫌そうな顔でフロランスの後ろに立っていた。手には丸めた書類を持っている。
女の子は熱心に話し続けている。
「宰相閣下も酷な決定をなさいますわね。たかが田舎領主の懸念を払うためにグレゴワール様に長旅をさせるだなんて」
「いえ、部隊長といえど一兵にすぎませんから」
「シプリアンの再来とまで言われるグレゴワール様がそんな扱いをされていいはずはありませんわ」
グレゴワールは普段よりも丁寧な話し方をした。女の子が手を差し出すと、グレゴワールは宝物のように丁重にその手を取った。
ずきり、また胸が痛む。
(私なんかの手だって引いてくれるんだものね)
きっとあの女の子の頭を撫でたり抱きしめることもあるのだろう、庶民が握手をするのと同じ程度の気軽さで。グレゴワールが大切な貴族の姫君の手を取るのは当たり前ではないか。
それなのにフロランスの胸にはもやもやと負の感情が渦巻く。
「私でしたらグレゴワール様の盾となることもできますわ。私たちの、お互いに支え合っていくこともできると思いますの」
ちらりと見えた女の子は艶めいた表情をしている。それは、意図が明らかな誘いだった。
フロランスの心臓は嫌な音を立てた。
(盾に、なることができる)
あの少女はすでにグレゴワールの役に立つことができるのだ。だがフロランスはまだなんの役にも立っていない。グレゴワールにしてあげられることがないどころか、恩返しさえもできていないというのに。
フロランスは手を握りしめた。
「まったく、忙しいときに。ちょっとは遠慮しなさいよね、面の皮が厚いんだから」
小声で苛々と文句を言うヴェロニックに、フロランスははっとした。グレゴワールとヴェロニックが恋仲ならばあの女の子の存在はさぞかし不快だろう。
「いいんですか、あれ」
「よくないわよ。仕事が滞るじゃない。クロディーヌは有力貴族の娘でね、無碍にも出来なくて面倒なのよね」
「そうではなくて、クロディーヌ様? 明らかにグレゴワールさんを誘惑してますよね……その、ヴェロニックさんは……嫌なんじゃ……?」
おそるおそる尋ねると、ヴェロニックは目をぱちぱちさせた。そして少々の沈黙の後、微妙な顔になって首を傾げた。
「……もしかして、私とグレゴワールがイイ仲なんだと思ってる?」
フロランスがこっくり頷くと、ヴェロニックはくっと喉を鳴らした。それからお腹を押さえて大声で笑い出した。
「あっはっはっは! ちょっと、ちょっとやめてよ! 確かに私、独身だけれど!」
「え、あの」
「いくらなんでも二十近く年下の男になんて興味ないわよ! 私、グレゴワールの母親くらいの年よ」
「エ? 三十ちょっとくらいじゃないんですか!?」
「今年で四十五」
「うそ……」
ギーさんといい、年齢詐欺だわ。
茫然と呟くとヴェロニックはぷっと吹き出した。
「ああおかしい……ふふ、牽制するようなこと言ったものね。あれはグレゴワールに手を出すなって意味じゃないわ。なにかの魂胆があってグレゴワールに取り入りろうとする輩じゃないか警戒していたのよ。ごめんなさいね。あなたは違うって今はもうわかってるわ……ふふふっ!」
なにがツボに入ったのかまた笑いの大波がぶり返してきたらしく、ヴェロニックはお腹を押さえてひくひくとしている。
「そ、それに……なんで私とグレゴワールが恋人同士だって間違えたのよ?」
「ごめんなさい。仲が特に良さそうに見えたので」
「まあ、そうね、呼び捨てにしてしまってるし」
「それにグレゴワールさんかっこいいし、実力者で美人のヴェロニックさんとならお似合いだなって」
「……ん?」
「え?」
ヴェロニックは当惑したようにフロランスを見る。その反応にフロランスもまた困惑した。
ヴェロニックは書類でグレゴワールを指した。
「かっこいいって、グレゴワールが?」
「はい。かっこいいですよね?」
「……男として、という意味であってるかしら?」
「もちろんです。……あっ違うんです! 恋人になりたいわけじゃないんです私なんかじゃ釣り合わないってわかってますし。ただ憧れて……そう、憧れです憧れ!」
心の中になにかもやっとした得体のしれない感情がわいたが、フロランスはそれに蓋をして力説した。そこまで身の程知らずではないと言いたい。
が、ヴェロニックは深刻な顔でフロランスに詰め寄った。
「あなた、正気なの!? 私、はじめてグレゴワールと会ったの遺体安置室だったけどどれがグレゴワールでどれが死体なのかわからなかったわよ!? いえ確かに魔術師としては間違いなくかっこいいわ、それはわかるわ、でもね?」
「で、でも顔もかっこいいですよね? 整ってて、目も切れ長で綺麗な形だし」
なぜ否定されるのかがわからずフロランスはおろおろと答える。ヴェロニックはたっぷり沈黙した。クロディーヌの甲高い声が遠くで聞こえる。
「フロランスちゃん。あの男、肌は土気色だし隈も酷いわよ? 魔王だの魔人だのって呼ばれているのよ?」
「で、でも……優しいですし。グレゴワールさん、モテるでしょう? クロディーヌ様だって、ほら」
「確かに優しいけど……ねえ、ちなみに優しいっていうのは具体的にどういうところが?」
フロランスはクレドーで治療してもらったことや村で家族に対応してもらったこと、クレドーの屯所で世話を焼いてもらったことを簡単に話した。
「ただの村娘にここまでして頂けるなんて。手をつないでエスコートまでしてくれて」
「そうね、それは見たわ」
「貴族の娘でもないですのにね。それに、不安だったときに頭を撫でてなだめてくださったり、泣いてたら抱きしめてくれたり」
「抱きしめた!?」
「毎日健康診断までして下さって」
「え、え、え……ちょっと待ちなさい!」
ヴェロニックは左手で口を押さえ、右手を振ってフロランスを止めた。
「グレゴワールがあなたを撫でたり抱きしめたりしたの?」
「? はい」
「健康診断まで? 毎日?」
「はい。貴族の女性相手だときっとあれが普通なんですね? 田舎の庶民には考えられないです」
「待って、あのね、エスコートはともかく撫でたり抱きしめたりは貴族の間でも普通のことじゃないわ」
「そうなんですか? なら……ああ、やっぱり! グレゴワールさん、天然女誑しなんですか」
フロランスはがっくり肩を落とした。なんとなくそうじゃないかと思っていたが、やはりそうだった。
(ううん、いい夢見られたから良かったのかな)
恋人でもないのに自分にだけ優しくして欲しいだなんて欲張りすぎだ。せめてこんな自分にも優しくしてもらえたことを素直に喜ぼう、とフロランスは自分を慰めた。
「もしかして、あの私の太陽という呼び方もいつもされてるの?」
「はい。意味は私にもよくわからないんですけれど。私、あんまり自信がなくて下を向いて生活してたんです。そしたらそう呼んで下さって。きっとグレゴワールさん流のエールなんですね」
クロディーヌの甲高い声がまだ聞こえる。
フロランスは俯きかけて、無理に顔を上げて微笑んだ。
ヴェロニックはじっとフロランスを見つめて、「これは話し合いが必要だわ」と呟いた。
<人物紹介>
○ミュスクル・サングラン
第五部隊隊員。筋骨隆々の男、おおむね半裸。名は「血まみれの筋肉」の意。本名ではない。愛称、筋肉さん。
○クロディーヌ
貴族の娘。フロランスと同じくらいの年。グレゴワールを狙っている?らしい。




