魔獣に繋がれている(封印された記憶の暴走)
とても幸せ。
魔獣に命じられるままに訪問者を逸楽し貪り、それを餌として捧げる。なにも考えずに命令を待ち、立ち入る者を捕らえ、恍惚や陶酔あるいは魔気や命を奪う。
愛されている。魔獣につながれている。幸せ。
わたしは魔獣に繋がれている。魔法の鎖が首輪につながり逃亡を許さない。どんな命令にも、逆らわない。
彼は、わたしの全て。魔獣になってしまっても、全く言葉が交わせなくても、愛している。
なんでも従う。なんでも。
かつての恋人であり、婚約者。彼がなぜ魔獣になったのか、わたしは知らない。
挑発的で露出の激しい衣装は、魔獣の望みのままだ。わたしには万能の攻撃魔法が与えられている。魔獣に命じられるままに、思うがままに能力をふるった。随分と時は経ったが、妖艶な、魅力深い、しかしあどけなさの残る少女の姿を保っている。
迷宮の奥深く、冒険者たちの最終目的地。
皆、魔獣を倒す目的で、迷宮内の敵を倒し辿り着く。
そうした者たちを魔獣の命令で、わたしは根こそぎ殺すのだ。その前に、精気を魔気を奪う。魅了の技に翻弄された冒険者たちは我を失う。籠絡し、卑猥を、悦楽の味わいを、魔獣に捧げる。
「魔獣は、わたしが愛した人の成れの果て!」
その叫びは、死者のみが聞く。
何の思考もない。どのくらいの刻、こうして過ごしているのかも定かでない。
魔獣に繋がれている。
とても、幸せだ。幸せなはずなのだ。
退治に、討伐に、経験値を積みに。無謀なものは後を立たない。
それとも、快感を求めにくるのか?
どんな噂で、この複雑な迷宮の奥まで討伐に来るのか、わたしは知らない。
わたしは、ただ、魔獣に食事を与える。求める美味しい快楽の気配を、訪問者との戯れを見せ、捧げる。望みのままに。
ある日、魔女がひとりで訪れた。穏やかそうな表情。
ひとりで迷宮を潜り抜けてきたの?
(……まあいい。女か。では、魔気を吸って捧げましょう!)
魔獣は否定の意識を送り込んできた。
(あら、ちがうの? まぁ! 女とでも良いの? そう、見たいのね?)
ふふっ、と、わたしは笑む。
魔獣は、淫猥の景色を食べたいのだ。
露出的な衣装。挑発的な仕草。蠱惑の笑みで、魔法を放つ。
魅了と媚薬が洞窟の奥に漂った。
「無駄よ」
少女よ、と、続けて魔女はいった。
少女? わたしは、成熟した女性。卑猥な願いをかなえる艶めく身体を持つ。
「少女よ、あなたの妄念妄執が、魔物をつくり出しているのよ!」
戦闘中のはずの魔女は、優しい声をかけてきた。
(……わたしは、彼の命令に従うだけ……)
魔女が魔法を閃かせた。わたしは魔法に包みこまれ、不思議な感覚に乱される。
「魔獣の本能など、命令ではありませんよ? 早く、彼を解放してあげなさい」
魔女の言葉が鮮明に心に届いてきた。
(……解放? 繋がれているのは、わたしのほうなのに?)
「少女よ、それは違います。魔獣を鎖に繋ぎ、意のままに飼っているのは、あなた。彼を、魔獣にかえたのも、あなたです」
(……何を言っているの?)
混乱する。混乱する。混乱する――。
(わたしが飼ってる? まさか! わたしは魔獣に愛され、束縛され、愛しているの……)
「依存など、愛とは呼べませんよ?」
(……愛してるの……彼の命令がないと、生きていけないの……)
「それは気のせいよ」
魔女の意のままに、会話をさせられていた。
記憶が、わたしの奥底に閉じ込めた記憶が、引き出されようとしている。
依存する余りに狂ったわたしの、狂った魔法が突如発動し、婚約者を魔獣に変えた――。
『婚約破棄? 何を言っているの? とんでもない! 彼は私を愛しているのよ』
伝令を聞き、わたしは婚約者の元へと走る。
愛し愛されていた。はず。幸せな婚約者同士だった。
(……こんなこと、全て忘れた!)
もはや、彼には人の心は残っていない。わたしにも。
わたしは、魔獣に繋がれ、彼のためだけに、彼の望みを叶えるだめだけに、何でもする。
淫猥は、魔獣の餌だ。わたしが訪問者にもたらす悦楽を思い切り餌にする。だから、冒険者が訪ねてくれば、わたしは魅了の魔法と媚薬の魔法で虜にし、淫猥の限りをわたしに受けさせる。鎖で繋がっている魔獣は歓喜の咆吼をあげた。
そして、彼のために魔気を吸収しつくし、命を狩る。命の消えるその瞬間の魂が爆ぜるのも、すべて魔獣の餌であり悦びだ。
強大な魔法の力を、わたしは魔獣のために捧げている。
(ふふふ、はははは! 愛しているの! わたしだけのものなの! わたしは彼のものなの! 愛されてるの!)
狂ったように、わたしは嗤った。
闇に蠢くような魅惑が澱む沼。
(たっぷり浸かって狂うがいい!)
まとわりつく感覚からは、逃れられない。頽廃を、悖徳を、心のなかから引き出され絶望すると良い。
耽美に堕ちろ。
魔女へと向け、わたしは渾身の魔法を放つ。
「いい加減、彼を解放しておあげなさいな」
わたしの魔法は弾かれ、魔女は優しい表情で囁いた。
(ふふふ、お前も魔獣の餌になるのよ!)
快楽か魔気の喪失か。
(どちらにせよ、たっぷり捧げます!)
わたしの献身的な言葉に魔獣は歓喜し、魔法を、命令を、与えてくれる。
しかし魔獣が命じ与えてくれる魔法が、この魔女には効かない。
「……なぜ?」
心の言葉でなく、わたしは声音で呟いた。
「命じて! もっと、もっとよ! ああ、命令でわたしを満たして!」
わたしは、鎖で魔獣に繋がれている。鎖から、命令と魔法は与えられる。
「諦めなさい。彼はもう、転生するべきよ。これ以上、苦しめさせないで」
魔女は諭すように告げる。
意味がわからない。
(……魔獣に繋がれている、のは、わたし!)
鎖に繋がれている……魔獣の懇願。
わたしが、繋いでいる?
強大な魔法で繋がれ、飼われ、命令させているはず。
思いは既に揺らいでいた。
(ただの、わたしの望みだったの? たくさん殺したのも……)
「それは、魔獣に餌を与える必要があったからでしょう?」
意思も心も奪い、何もかも、わたしのものにしたら、彼は魔獣になった――。
「さぁ、貴女が鎖を解くのよ!」
「いやいやいやいやいやあぁぁぁぁぁぁ!」
魔女の言葉が、わたしと魔獣を繋ぐ鎖を揺さぶる。
彼に、魔獣に命じられるまま、という幻想……で、魔獣に繋がれていた。
命じられて。と、そう思いこみ。自分勝手に捧げている。
元婚約者には、彼には、最早、理性のカケラも、思考のカケラもない。わたしの操り人形。わたしを操ってくれる、操り人形。魔獣――。
そんな馬鹿な!
(もう……許してくれ……)
魔獣の、元婚約者の、言葉にもならない感情が流れこんできた。
なにをいっているの?
わたしを、ずっと繋ぎ止めて!
鎖で、ずっと、繋いで。手放さないで!
「いいえ。手放しなさい。貴女にはその義務がある」
魔女の言葉に重なるように、ぼんやりと、薄ぼんやりと、彼の元の姿が浮かぶ。
(許してくれ。俺が悪かった)
魔獣の、人間だった頃の声が脳裡で囁いた。
心が騒ぎ、ざわつく。
依存したのは……わたしだ。わたしは彼なしで生きることなど不可能だった。わたしの妄執に耐えかねた婚約者は、婚約破棄を申しでた。
その瞬間に、わたしは狂ったのだろうか?
依存につぐ依存。わたしの溺愛を背負いきれず、婚約破棄も突っぱねられ、婚約者は魔獣に変化してしまった。
わたしの溺愛。溺愛されている、というのは幻想。わたしの依存は異常に深く彼を追い詰めた。
彼は、魔獣になった。
魔獣になったからって、わたしは婚約破棄したりしない。
行きましょう。ふたりだけの場所へ。
「俺は逝く。もう、逝かせてくれ……」
懐かしい声が響いた。
「せめてもの、最後の俺からの贈り物だ」
声が続き、わたしは呆然としながらも解放せざるを得なかった。首輪に繋がる鎖が消えて行く。
(解放の礼に……受け取れ、ご主人)
解放と同時に愛が戻ったのか。彼は、魔獣のなかにあった、たったひとつの魔法を、わたしにかけた。
彼は、わたしの名を忘れている。わたしにも、名はない。彼の名も知らない。
魔獣と、魔獣に繋がれたもの。いや、魔獣を飼う悪鬼だ。
「逝かないで!」
わたしの絶叫が、迷宮に谺しながらも遠くに聞こえる。
わたしは、ドンドン小さくなっていた。魔獣が最後に放った魔法。わたしのなかで、記憶が逆巻き、消えて行く。
彼は魔獣に変わる前、貴族だった。わたしも貴族。婚約していた。
幸せだった頃の記憶。貴族の令息と令嬢の恋。恋は叶い、婚約者となった。
魔獣に変わったからとて、消えはしなかった恋心。
(どうして一緒に消滅させてくれないの?)
消えて行く記憶のなかで、愛を反芻する。
半身を失くしてしまったような消失感。これを抱えたまま、愛する者を、命を賭けて愛した者を失ったのに、どうやって生きていけと?
しかし、ドンドン年は蝕まれ、喰われるようにして記憶が消えて行く。
身体は年齢を失い、若返って行く。
わたしは、若返り、どんどん子供に戻っていった。表面上の記憶も消えて行く。だが、魂に刻まれた記憶は、決して消えはしない。ここで起こった事実、わたしのしでかした事実は決して消えない。
魔女は目の前で、更に何かの魔法を、わたしにかけた。
温かい……。
魔女は、わたしの魂の記憶を封印したようだ。
小さく、小さく。わたしは戻る。身体も記憶も、巻き戻る……
魔獣は消えて行った。彼の魂は、魔女の力によって転生の輪へと乗せられる。
わたしの身体は、変化し続けた。まっさらな幼い身体へと。
――――――――?
わたし……誰だっけ? なにしてたの? こんな暗い場所で?
幼い者の手。わたしの手?
目の前。自分の手を見ている。小さな手。
優しい表情の魔女が、不意に手を繋いできた。
温かく、不安を解す。柔らかな感触。
「お嬢さん、あなたの名前は?」
記憶がなく、キョトンとしてしまう。
「名前は?」
もう一度、優しい声が訊いてくる。
わたしの名前?
…………!
「……リデル」
誰か懐かしい人が呼んでくれていた名前……。
「そう。いい名前ね!」
魔女は、そう言いながら笑み。繋いだリデルの手を軽く握る。
「今日から、私があなたの師匠よ!」
優しい慈愛に満ちた声に、わたしは安堵したようだ。
「ししょー?」
わたしは首を傾げて訊く。幼い響きの声。
「そう。リデル、あなたは魔女になるの。私は、厳しいわよ?」
優しく笑み、魔女は告げる。
「ししょー? わたし、魔女になれるの?」
小さなわたしは見上げる視線を向け、不安と希望が入り混じった心で訊く。
「そうよ。私は、モエカ・バノッフィ。さあ、うちに帰りましょう?」
わたしは、モエカ・バノッフィと名乗る魔女の養女になった。
心はほんわりと、幸せに満ちている。ただ小さな棘が魂の奥底に沈んでいた。強い封印に柔らかく包まれ、わたしにも気づかれないままに。




