第8章―1 第二次世界大戦突入直前の日本陸海軍の改革の進捗状況
新章、第8章の始まりになります。
そんな会話が、米内光政首相と吉田茂の間に交わされた末に、吉田茂は米内光政内閣の外相に就任することになったのだが。
その一方で、日本陸海軍の改革は、それなりに様々な米英仏の協力を受けて進捗していた。
「取り敢えず、と言っては言葉が悪いが。97式中戦車の主砲を、47ミリ長砲身砲に代えて量産化することは何とかなりそうで良かった」
「実際問題として、中国国民党軍の戦車の殆どがソ連製で、45ミリ砲を積んでいては。それと同等以上の戦車砲搭載を求める声が、日本陸軍内外に高まるのは当然ですよ」
1939年8月、そんな会話を日本の戦車開発の責任者を務める酒井鎬次中将は部下と交わしていた。
酒井中将は、日本陸軍が初めて編制した完全自動車化部隊と言える独立混成第一旅団長を務めたこともある日本陸軍きっての機械化、自動車化部隊のエキスパートと言っても良かった。
だが、一時は予備役編入処分を受ける直前にまで、酒井中将は至っていたのだ。
何故にそうなったかというと、銃殺刑に処された東條英機中将と酒井中将は犬猿の仲だったからだ。
そういった背景から、チャハル作戦で東條中将は独立混成第一旅団を故意にバラバラにし、更には歩兵、戦車、砲兵の連携が不可能な運用を行ったのだ。
こんなことをされては、独立混成第一旅団が戦功を挙げるのは不可能だった。
そして、東條中将は、陸軍省や参謀本部に対し、
「独立混成第一旅団は、全く以て無用の長物であり、陸軍の機械化、自動車化は戦訓から絶対に不可、と自分は考える。更に言えば、信賞必罰の観点から、独立混成第一旅団長の酒井少将は、少なくとも予備役編入処分を受けるのが当然である」
とまで報告書を正式に提出したのだ。
更には(第二次)上海事変で惨敗した松井石根中将等までも、
「チャハル作戦の戦訓からして、機械化部隊、戦車部隊は、徒歩歩兵に費用対効果で明らかに劣る。それに負けて、戦車部隊の威力を称賛するとは、自らの無能を隠蔽する卑劣な行為だ」
とまで東條中将は誹謗中傷した。
実際に単純にチャハル作戦の戦訓を見れば、独立混成第一旅団は無用の長物視されても仕方ない。
だが、それが東條中将の依怙贔屓に因るモノなのは、第二次上海事変に従軍した面々等、それこそ陸海軍等を問わずに、見る人が見れば明らかなことで。
更には、誹謗中傷された松井中将等が詰め腹を切る事態にまで至ったことから。
東條中将は、逆に陸軍内外から批判を受けることになり。
更には、ゾルゲ事件から近衛文麿首相が自裁する事態まで起きたことから。
「東條中将は、実はコミンテルンの一員で、日本陸軍を弱体化させ、日本の赤化を図っている。チャハル作戦等がその証だ」
とまで言われることになって。
東條中将は、その批判に耐えかねて、自裁しようとしたが、それに失敗したことから、更に批判の声が高まる事態に至り、終には軍法会議で銃殺刑に処せられるにまで至ったのだ。
ともかく、陸軍の機械化、戦車強化を批判していた東條中将が銃殺されたことから、(この世界では)日本陸軍は、その反動も相まって、陸軍の機械化、戦車強化等が順調に進むことになった。
取り敢えずの応急措置に他ならないが、97式中戦車については、57ミリ短砲身から47ミリ長砲身に主砲が換装された上での量産化が行われることになった。
(対戦車戦闘を基本に考えるならば、47ミリ長砲身に97式中戦車の主砲を換装するのは、止むを得ないこと、としか言いようがないことだったのだ)
更には、急な改造ということで止むを得なかったが、リベット打ちでの前面装甲強化が、97式中戦車では図られることになり、ソ連戦車に何とか対処できるようになっていた。
えっ、御都合主義にも程がある、と言われそうですが。
この東條英機と酒井鎬次の対立、更に独立混成第一旅団の運用法については、史実の東條英機がやったことです。
更にこの戦訓を基にして、日本陸軍の機械化に、費用対効果を理由に、東条英機はトコトン反対姿勢を史実では貫いたとのことです。
ですから、御都合主義でも何でもありません。
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