第7章―4
ともかく、こういった背景から、(この世界でも、史実同様に)「ミュンヘン会談」は終わることになり、チェコスロヴァキア政府は、それを受け入れることになった。
だが、このことはチェコスロヴァキア国内外に、多大な影響を与えざるを得なかった。
例えば、チェコスロヴァキア国内では、チェコ人とスロヴァキア人の対立が起きるようになった。
(この辺りは、近親憎悪に近いモノがあった。
チェコ人、スロヴァキア人の違いだが、話す言語がチェコ語か、スロヴァキア語かの違いしかない、と言っても過言ではない。
そして、チェコ語とスロヴァキア語は、極めて近い言語であり、一部の人に言わせれば、それこそ江戸弁と大坂弁の方が違う、と言われる程であり、実際にお互いの単語の約95パーセントが共通である、という研究がある程でもあるのだ。
だが、その一方で、歴史的経緯から、チェコ人がスロヴァキア人に対して、指導的立場に立つことが多く、そうしたことがチェコ人とスロヴァキア人の対立を招来してもいたのだ。
ぶっちゃけて言えばだが、スロヴァキア人に言わせれば、チェコ人は兄貴面をするな、ということであり、チェコ人に言わせれば、スロヴァキア人は我々の指導に従え、という関係にあったのだ)
ともかく、そうした状況から、ハンガリーは北部ハンガリー、具体的には旧領のスロバキアとカルパティア・ルテニアを、「ミュンヘン会談」後に自国領へ返還を強硬に求める事態が起きることになった。
更には、こういった状況から、その地域に住むスロヴァキア人の極少数派も、チェコスロヴァキアの下にあるよりも、ハンガリーへの帰属を求める事態にまで至った。
こうした事態を背景として、1938年10月にチェコスロヴァキアとハンガリーは、この問題について、独伊両国政府に調停を求めることになった。
(チェコスロヴァキア、ハンガリー両国政府共に、「ミュンヘン会談」の結果から、独伊両国にこの問題の解決を委ねるしかない、と考える事態に至っていたのだ)
そして、南部カルパティア・ルテニアと南部スロヴァキアはハンガリーに帰属する、という調停案が独伊両国政府から示されたが、スロヴァキアとカルパティア・ルテニアの住民の大半は、この調停案への拒絶姿勢を示し、自治政府を樹立して、チェコスロヴァキアからの独立を宣言する事態にまで突入した。
これに対して、ハンガリー政府は調停案の履行を求め、更には調停案を拒むならば、スロヴァキアとカルパティア・ルテニアを軍事的に併合しよう、と侵攻作戦の発動を準備する事態にまで至った。
チェコスロヴァキア政府はこの国家的危機に際し、英仏等は最早、頼りにならないとして、ドイツ政府を頼ろうとしたが、ヒトラー総統率いるドイツ政府は、チェコの保護国化等を逆要求する有様だった。
最終的な結果だが、1939年3月に「最終的解決」が為されることになった。
ズデーテン地方はドイツ領、ボヘミアとモラヴィアはドイツのベーメン・メーレン保護領、北部スロヴァキアはドイツの保護国であるスロヴァキア共和国、南部スロヴァキアとカルパティア・ルテニアはハンガリー領、ということになったのだ。
ここまでの事態に至ったことについて、流石に英国政府を始めとする諸外国政府は、ドイツ政府の拡張主義を批判することになったが。
自らドイツの拡張主義を阻止するために、宣戦布告をするだけの覚悟は持てなかった。
そうしたことから、英仏等の政府は、日米両国政府に対して、これ以上のドイツの拡張主義阻止への協力を依頼する事態が起きた。
そして、国内の根強い孤立主義から米国政府は動かなかったが、日本政府は密やかに動く事態が生じたのだ。
話中で、大阪のことを大坂と書いていますが、これは故意に書いています。
ネットで色々と当たった際のことですが。
「チェコ語とスロヴァキア語の違いだが、江戸時代の江戸弁と大坂弁より近いと言っても良いが、それでも別の言語とされている。
それ位、方言なのか、違う言語なのかは、ギリギリ言うと難しい話」
と言うのを、以前に読んで印象に残っていたことから、使わせて貰った次第です。
ご感想等をお待ちしています。




