第7章―2
1938年3月のドイツとオーストリアの合邦、「アンシュルス」は、ヒトラー総統率いるドイツ政府の拡張政策の第一歩となった。
続けて、ドイツ政府は、「ズデーテン問題」を取りあげることで、更なるドイツ領の拡大を目論んだ。
だが、これ又、単純にドイツ政府の言い掛かりとは言い難い背景があった。
そうしたことが、英仏両国政府の宥和政策の継続が為される事態を招来したのだ。
さて、「ズデーテン問題」の背景だが。
第一次世界大戦後の民族主義の高まりの結果として、オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊した。
そして、チェコスロヴァキア等の国家が、それに伴って成立した。
だが、チェコスロヴァキア国内には、これまでの歴史的経緯からドイツ人が大量に住んでおり、チェコ人等と穏やかならざる関係にあった。
そうしたことから、ドイツ人、ドイツ系住民が多数住む地域は、「ズデーテン地方」(細かく言えば、ドイツ系ボヘミア州等も含まれるのだが)として、オーストリアやドイツへの帰属を求めたのだが、サン=ジェルマン条約の結果、チェコスロヴァキアの領土ということになった。
その代わり、英仏等の連合国はチェコスロヴァキアとの間に、チェコスロバキア国内の民族平等を定めた「少数民族保護条約」を締結することとした。
それによって、ドイツ人を含めた諸民族の権利保護が図られることになったのだ。
だが、結果的にだが「少数民族保護条約」を、チェコスロヴァキア政府は反故にした、と言われても当然の行動を執ったのだ。
チェコ語とスロヴァキア語を併せたチェコスロヴァキア語が、唯一の公用語とされた。
(細かいことを言えば、現代ではチェコ語とスロヴァキア語に、又、分かれているようですが)
更には、ドイツ人学校が相次いで閉鎖に追い込まれる事態が起きた。
こうしたことは、オーストリア=ハンガリー帝国時代には、ドイツ語とチェコスロヴァキア語が対等な立場で共に公用語であったことから、ドイツ人にしてみれば、明らかな差別に他ならなかった。
更に世界大恐慌の嵐が、チェコスロヴァキアにも襲い掛かった。
皮肉なことにズデーテン地方では、隣接しているドイツ等への輸出頼みの中小企業が多く、世界大恐慌という大嵐の為に失業者が大量に生じる事態が起きた。
その為に、チェコスロヴァキア国内において、ズデーテン地方とそれ以外の地域をすると、ズデーテン地方の失業率は、約2倍以上に達するという事態が起きたのだ。
(21世紀の今でも、真実か否か議論になっているが)ドイツ人の方がチェコスロヴァキア人よりも極めて失業率が高い、という噂が乱れ飛ぶ事態となり、ズデーテン地方では、こうした事態の改善を求めて、ドイツ人が将来的な自治権の確立と、そこまでの「自立権」を求める運動が活発になる事態が起きた。
これに対し、チェコスロヴァキア政府は、こういった運動は国家を崩壊させるモノであると批判して、ズデーテン地方においてドイツ人の集会を禁止する等の措置を執ったのである。
こうした状況が、ズデーテン地方に住むドイツ人の多くを過激化させ、ズデーテン地方のみならず、全ボヘミア、モラヴィア、シレジア地方のドイツへの編入を求める主張が高まる事態を、更に引き起こした。
実際、1938年5月の地方選挙において、ズデーテン地方のドイツ人居住区域内において、ドイツへの編入等を求めることを公約としていたズデーテン・ドイツ人党が、9割も得票する事態が起きている。
こうした更なる状況から、ヒトラー総統率いるドイツ政府は、チェコスロヴァキア政府に対して、受け入れ不可能な要求を突きつけることになり、ミュンヘン会談への路が開かれることになったのだ。
「ズデーテン地方」等の問題についても、私が調べる限りですが、当時のチェコスロヴァキア政府が真っ白とは言い難い現実が。
それこそ批判されそうですが、ガザ地区へのイスラエル攻撃が、ハマス攻撃である以上は当然だ、という主張に近い事態が起きていました。
こうしたことが、英仏両国民の多くが、チェコスロヴァキア救援の為に戦争すべきだ、という主張に反対する現実が起きた気がして、この話を描きました。
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