第5章―2
さて、改めて米内洋六少佐と、娘の藤子の対談の場に話を戻すと。
上海から無事に撤退した後、米内少佐は横須賀鎮守府に速やかに転勤して、常設の日本海兵隊建設任務に当たることになったのだ。
詳細は次章以降で描くが、(この世界では)盧溝橋事件勃発から万里の長城以南の中国本土からの日本軍等の全面撤退という結末を迎えた日中戦争で得られた様々な戦訓(というより、かつての師匠のドイツ軍から厳重な指導教育を日本軍は受けた、というべきだろう)から、日本陸海軍は大規模な改革を強いられることになっていたのだ。
更にその一環として、海兵隊の常設化が図られることになり、実戦経験がある米内少佐は、その任務に当たるようにという辞令が出た次第になる。
そして、それに当然のことながら、米内少佐の妻子も同行することになり、佐世保から横須賀に妻子は引っ越してきたのだが。
米内少佐にしてみれば、横須賀で想わぬ事態が、二つ程、起きることになった。
上海から脱出して日本に赴いたユダヤ人の殆どが、日本には頼れるモノがない人達だった。
そうした事態から、彼らの多くが、困った者同士で助け合って生きたい、固まって住みたいと希望する事態が起きた。
そして、固まって住んだ方が、生活習慣の違いから生じる様々な問題が避けられるだろう、と日本政府も考えたことから。
上海から脱出して来たユダヤ人の主な面々と、日本政府の要人が話し合った末。
ユダヤ人の多くが、横須賀及びその近郊に住む事態が起きたのだ。
その結果、口の悪い人からは「横須賀ゲットー」とまで呼ばれたが、数千人規模のユダヤ人が住む一帯が横須賀近郊に出来ることになり、更にそこに、ナチスドイツ等の迫害の為に欧州から逃げ出してきたユダヤ人が住むことが、徐々に増えることになったのだ。
日本政府の本音としては、彼ら、ユダヤ人に日本国外に移住して欲しいことであり、それこそシオニズム運動等から生じたイギリス領パレスチナに、彼ら全員が移住して欲しいと考える程だったが。
生憎というか、(史実同様に)1936年4月以降、イギリス領パレスチナの地は、ユダヤ人の入植とイギリスの植民地支配に反発したアラブ人の叛乱の嵐に覆われていたのだ。
そんな状況下にあるイギリス領パレスチナに、上海から命辛々亡命してきたユダヤ人(しかも成人男性が少ない)が赴きたがる訳が無かった。
そんなことから、横須賀近郊に住むユダヤ人は減るどころか、増える一方になっていた。
そして、横須賀近郊に住むユダヤ人にしても、自活していく必要があり、その為にお金を稼ぐ必要があるのは当然の話だった。
そんなことから、横須賀市の内外で働くユダヤ人が増えることになっていたのだ。
更には、横須賀市内のあるカフェで働く、あるユダヤ人の女性の下に、(米内少佐の養子の)仁は懐に余裕があれば通うようになっていた。
米内少佐が見る限り、仁は彼女に歯牙にも掛けられていないようなのだが、藤子にしてみれば、彼女のことが気になってならないらしい。
(更に言えば、米内少佐の妻の久子が、藤子を挑発しているようなのが、事態をこじらせていた。
(既述だが)久子と藤子の関係は、継母子関係というより、嫁姑関係に近い。
そんなことから、久子が、
「仁が(ユダヤ人の)彼女と結婚したいのなら、結婚すれば良いのに」
と聞こえよがしに言い、それを聞いた藤子が益々カリカリする事態になっていた)
とはいえ、米内少佐にしてみれば、家庭内の嵐を何としても収める必要がある。
そんなことから、米内少佐は娘の藤子に対して、
「彼女に自分が直に会って、仁とは付き合うな、と言うから」
「絶対ですよ」
とそんなやり取りをする羽目になった。
念のために補足しますが、「横須賀ゲットー」と呼ばれてはいますが、住民の殆どがユダヤ人の地区が出来たというだけで、その地区が別に隔離されているとか、ユダヤ人以外が住んでいないとか、法律等で特別な地区になっているとか、そんなことはありません。
日本人も当然のように少数ながらその地区に住んでいて、内外の往来もありますが、ユダヤ人が住民の殆どを占めることから、「横須賀ゲットー」と呼称されるようになっただけです。
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