第4章―9
そんな考えをしながら、米内洋六少佐は懸命に上海において中国国民党軍の攻勢を凌いでいたのだが、戦況は徐々に動いていた。
8月23日に、日本陸軍の第3師団と第11師団は、上海近郊での上陸作戦に成功した。
更にこれに乗じて、第3師団と第11師団は、上海海軍特別陸戦隊と共闘して、上海近郊から中国国民党軍を駆逐しよう、と作戦を展開しようとしたのだが。
実は、それは中国国民党軍というよりも、ドイツから派遣された軍事顧問団の面々による罠だった。
「本当に不出来な弟子には困ったモノだ。そもそも、あっさり上陸できたこと自体を、日本陸軍は怪しむべきだろうに。厳重に不出来な弟子は教育してやる必要があるな。まあ、精神論に頼っている時点で、フランス軍の悪影響を受けすぎているのだろうが」
この時にドイツから派遣されていた、ルントシュテット将軍は、そう喝破したという逸話がある。
最もこの逸話について、ルントシュテット将軍自身は、第二次世界大戦後に否定しているのだが。
そうは言っても、ルントシュテット将軍とこの頃に面談したドイツの記者が署名入りで報じた記事の中の話であり、ルントシュテット将軍が否定しているのは嘘では、という疑惑がある逸話でもあるのだ。
それはともかくとして、日本陸軍の2個師団は、厳重な教育を師匠と言えるドイツ陸軍から受けたと言える事態が起きることになった。
「上陸可能な地点が無防備なままであるのを、日本軍は疑うべきだったな」
グデーリアン将軍は、そう独り言を言いながら、自分の子飼いといえる部隊となった中国国民党軍の1個装甲師団と共に、日本軍2個師団が上陸した地点に急行することになった。
本来から言えば、この頃の中国本土の様々な状況、道路整備等の問題から、装甲師団が日本軍が上陸した地点に急行することは困難どころか、不可能と言っても過言では無かった。
だが、上海において日本軍と雌雄を決して大勝利を収めることで、日中戦争を勝利で終えることを構想していた蒋介石の作戦構想と、ドイツから派遣されていた軍事顧問団の面々の思惑が一致したことから、日本軍が上陸した上海近郊に、グデーリアン将軍が直率する1個装甲師団が急行することが可能になったのだ。
更に言えば、他に中国国民党軍の2個歩兵師団等が、日本陸軍の上海近郊での攻撃に対処する為に差し向けられる事態が起きた。
この為に、日本陸軍にしてみれば、それこそ日露戦争以来の歴戦師団である第3師団と第11師団が共に苦戦を強いられる事態が起きた。
(第3師団に至っては、日清戦争も経験した歴戦師団である)
日本陸軍の上層部にしてみれば、それこそ日清戦争以来、中国軍は弱いというのが固定観念である。
更に言えば、1931年から1933年に掛けての満州事変において、張学良が無抵抗戦術を基本的に採ったのが、実は大きな要因ではあるのだが、10倍以上の張学良軍に対して、日本軍は優勢裡に戦えたという直近の記憶もある。
こうしたことから、日本陸軍は正直に言って中国国民党軍を舐めていた。
(更に言えば、日本の世論も中国国民党軍を舐めており、「暴支膺懲」論が蔓延る一因となっていた)
だが、グデーリアン将軍が率いる1個装甲師団を中核とし、更に2個歩兵師団等が加わった中国国民党軍の攻勢は、そもそも日本軍が2個師団に過ぎなかったことも相まって、量的には中国国民党軍の2倍の攻撃を日本側が耐え凌ぐ事態を引き起こした。
更に言えば、兵器、特に戦車等の質の差は絶望的と言っても過言ではない中で、日本軍は戦う羽目になった。
「対戦車砲が無いだと。戦車に体当たりしろ、と上はいうのか」
そんな言葉が交わされることになった。
日本陸軍ですが、私の理解する限りですが、ドイツ(プロイセン)陸軍の直弟子という評価が多数ですが、秋山好古将軍等、フランス陸軍の直弟子が日本陸軍には多数おられましたし。
日本陸軍の精神主義は、私が虚心坦懐に調べる限り、明らかにドイツでは無く、フランスの影響が明らかに大きいとしか、言いようが無い現実があります。
そんなことから、この話の事態が引き起こされます。




