第28章―8
そういった背景から、八原博道中佐は、フランス軍のアルザス、ロレーヌ地域の解放を目指し、更にザールへ、最後にはルール工業地帯を速やかに占領していくことで、ドイツに敗北をもたらす、という主張に対して懐疑的な意見を述べることになったのだ。
そして、その一方で、英軍の主力はアルデンヌ高原を抜けて、ルール工業地帯を目指そうとしていた。
フランス軍が、アルザス、ロレーヌ地域を解放して、更にザール地方を目指すのならば、それはそれで構わないが、その間に自分達は、それこそ昨年、1940年にドイツ軍がやったのを逆用し、アルデンヌ高原を抜けて、ルール工業地帯を急襲することで、ドイツに城下の盟を誓わせよう、と策していたのだ。
(尚、誤解を生じそうなので付言するが、英軍の一部も、ベルギー、オランダの解放に対して、それなりに投入されてはいる。
だが、まずは幹を枯らしてしまえば、枝葉も枯れるということから、英軍の主力は、ドイツ本土を目指す事態が起きていたのだ)
そういった事態から、オランダ、ベルギーの解放については、日本軍とユダヤ人部隊が、基本的に当たると言う事態が生じることになっていた。
(亡命オランダ軍や亡命ベルギー軍が皆無だった訳では無いが、(この世界では)共に1個旅団(連隊)程の戦力しかなく、とても単独ではドイツ軍と真面に当たって戦える戦力では無かったのだ。
この辺りは、両国共に植民地兵を募ろうにも、とても募兵に応じられるような統治体制が、植民地では敷かれていなかったこと、及び本国での戦いで、優秀な将兵の多くを失っていた事態から生じたこととしか言いようが無いのが、(この世界の)現実だったのだ)
そして、ドイツ軍にとっても、本来から言えば、ドイツ本土防衛が最優先で、オランダ、ベルギーの防衛は後回しに成るのは当然だった。
そういった全般的な状況にあったことから、何とも皮肉な事態が生じることさえ起きていた。
1941年8月2日、ベルギーの首都ブリュッセルの住民の多くが、何とも複雑な状況で、ドイツ軍が撤退してきた後に乗り込んできた連合軍の部隊を出迎えることになっていた。
日本の海兵隊が、ベルギーの首都ブリュッセルに一番乗りを果たしては、それこそ戦功を誇ろうとしているように見えるとの政治的判断から、英軍の外人部隊と言えるユダヤ人部隊が、ブリュッセル一番乗りを果たすことになったのだが。
既述だが、ベルギー国内でもドイツの占領下のときには、ユダヤ人狩りが行われていて、ドイツが設けた強制収容所に発見されたユダヤ人が送られる事態が多発していたのだ。
(更に言えば、時のベルギー国王レオポルド3世は、1940年のドイツ軍のベルギー侵攻に際して、国軍最高司令官として、ドイツに降伏したこともあって、降伏後はベルギー国内で幽閉生活を送る羽目になっていた。
そして、連合軍によるベルギー解放が間近になったことから、ドイツ軍によって強制的にドイツ国内に身柄を移送されることになり、この1940年8月当時はドイツ国内で幽閉生活を送っていた)
こういった事態が起きていた中で、ブリュッセルの住民というか、ベルギーの国民の多くが、表立っては余り口に出さなかったが、本音というか、内心では反ユダヤ主義者が、それなりに国王から庶民に至るまで存在していたのだ。
その為に、ドイツ政府のユダヤ人狩りに、ベルギーの国民の一部は積極的に協力する事態さえ、(この世界では)起きていたのだ。
そうした背景がある中で、ベルギー本国解放にユダヤ人部隊が活躍した、という現実を見せつけられては。
ブリュッセルの住民の多くが、複雑な感情をどうにも抱かざるを得なかったのだ。
話中の亡命オランダ軍や亡命ベルギー軍の規模ですが、私なりにネット等で調べたのですが、史実での詳細が分からず、かなり推論が入っています。
どうか緩いご指摘で平にお願いします。
御感想等をお待ちしています。




