第25章―7
尚、細かいことを言えばになるが、この1941年当時、純粋なヤーボ、戦闘爆撃機が開発されていたとは言い難いのが現実だった。
それこそ既成の戦闘機の一部が、臨時に地上部隊への爆撃任務を遂行するようになっており、更にそれが戦果を挙げるようになっていったことから、既存の戦闘機を戦闘爆撃機目的に改造したり、又、純粋な戦闘爆撃機を開発したりする事態が、徐々に起きつつあった段階だった。
この辺りだが、航空機のエンジンが発揮する馬力が、急激に向上していったのも裏の要因だった。
何しろ1930年代末当時、航空機エンジンの馬力は1000馬力前後と言っても過言では無かった。
だが、1940年代も半ば近くになると、2000馬力を発揮する航空機エンジンさえ、珍しくは無くなったのだ。
(実際、史実の日本海軍で言えば、零式艦上戦闘機は開発時点は栄12型が搭載されており、離昇出力は940馬力に過ぎなかった。
だが、紫電改になると誉21型が搭載されて、離昇出力1990馬力を発揮するようになっていた。
(細かいことを言えば、史実ではエンジン製造能力の低下や燃料問題等から、誉21型が1990馬力を発揮するのは困難だったようですが))
ともかく、こういった航空機エンジンの馬力向上が、戦闘機に爆弾をそれなり以上に搭載できる能力を与えることに、(史実でも、この世界でも)なったのだ。
そして、それによって、戦闘爆撃機の開発等が進むのであり、(この世界の)1941年春時点では、まだまだその兆しの段階で、ヤーボは細かく言えば、存在しないと言っても過言ではなかった。
だが、そうは言っても。
この1941年春当時、英仏日等の連合軍は、フランス本国内における制空権、航空優勢を確保しているといっても、過言ではない状況にあった。
それならば、手が空いているといえる一部の戦闘機、具体的に言えばハリケーン戦闘機等を、戦闘爆撃任務に転用するのはどうだろうか、という声が英仏日等の連合軍内部で挙がることになり、実際に転用してみたところ、それなり以上に地上攻撃に際して、戦果を挙げることができるのが判明したのだ。
その為に、邪道と言われそうだが、この1941年春当時、英仏日等の連合軍内では、一部の戦闘機が爆弾を搭載して、地上支援任務を行なう事態が起きるようになっていたのだ。
とはいえ、この当時、それこそカテリーナ・メンデスが良い例だが、多くの戦闘機乗りにとって、地上支援任務を行なうように、との命令については。
そんなに訓練も行われていないし、又、敵戦闘機の襲撃に対処する必要もある、とのある意味では小理屈から、敵機の襲撃があれば、多くの戦闘機乗りが、それこそ味方部隊の上空を飛んでいても、爆弾を捨てて、敵機の襲撃に対応する事態が、多発することになっていた。
そして、この状況が徐々に好転するのは、1941年夏以降、ハリケーンの戦闘爆撃機型が最前線に投入されるようになり、更には、搭乗員について、それに合わせた訓練が行われた上で、戦場に赴くようになって以降のことになる。
だから、この1941年春当時のヤーボ、英仏日等の連合軍の戦闘機による地上支援は、第二次世界大戦終結後に、双方の戦果、被害を突き合せた結果、それ程には効果的とは言い難かった、という意見が多数説化しているのが現実だが。
そうは言っても、それは1941年夏以降の戦果と比較してのことであって、実際にヤーボの攻撃にさらされていたドイツ軍の将兵にしてみれば、決して軽視できるモノではなかったのだ。
更にいえば、この当時はフランス本土が主な戦場で、レジスタンス活動も活発だった。
それが、ドイツ軍を苦しめていた。
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