第24章―12
ともかく、そういった誤った事前情報があったことから、英仏日等の連合軍の反攻作戦は、誤った判断に基づいて推進されることになった。
ノルマンディー、ブルターニュ半島橋頭堡の南北端に対して、戦艦等まで投入した上で、大火力によってドイツ軍の防御陣地を粉砕する。
その上で、両翼包囲を断行して、ドイツ軍に一大打撃を与えて、防衛線を完全崩壊に至らせた上で、フランス本土全土をドイツ軍の占領下から解放しよう、という作戦を英仏日等の連合軍は立てたのだ。
更に言えば、フランス本土の中南部を解放する必要性等もあるし、又、速やかにベネルクス三国の解放に取り掛かる必要もある。
そうしたことから総花式と言っても過言ではない作戦に、徐々になっていくのも当然だった。
それこそ作戦会議に参加した面々が、お互いの主張をぶつけ合い、少しでも自分の主張を通そうとする事態が多発してしまったのだ。
又、後から振り返ればだが、1941年4月末時点において、英仏日等の連合軍は現在の戦況について、余りにも楽観視していた、と言われても仕方のない状況にあった。
とはいえ、この当時、そういった楽観論が、英仏日等の各国政府、軍内部においては横溢していたのは、それなりの根拠があったのも、否定できない現実ではあった。
先ず第一に、いわゆるバトルオブブリテンにおいて、英仏日等の連合軍が大勝利を収めていたことである。
この為に、ドイツ空軍は北海からフランス全土における制空権、航空優勢を完全に喪失した、と英仏日等の連合軍どころか、ドイツ空軍関係者の大半までが判断しているのが、当時の現実だった。
そして、フランス本土内において、ドイツ軍等に反抗し、英仏日等の連合軍に加担するレジスタンス、パルチザン活動が徐々に活発になっており、実際にドイツ軍がフランス本土内で運行する列車輸送等に対して、戦果を挙げる事態さえも、徐々に起きつつあったことである。
勿論、装備している武器の質や参加している兵の経験、練度等が劣っている等の事情から、フランスのレジスタンス、パルチザン部隊が、ドイツ軍と真っ向から戦うのは困難というより不可能に近かったが、そうは言っても、フランス全土で徐々にレジスタンス、パルチザン部隊が積極的に活動するようになっては、ドイツ軍にしても、後方警備等の為に兵員を割かざるを得ず、そうなると、最前線に展開する兵の数がどうしても不足する事態が起きることになる。
そして、1941年4月に、ユーゴスラヴィア王国で内戦が起きたことも、英仏日等の連合軍内部に楽観論が広まる事態を引き起こした。
実際、その楽観論にしても、それなり以上の根拠があった。
ユーゴスラヴィア王国の内戦を鎮めるために、ドイツ政府は陸軍等を派遣せざるを得なかった。
更に言えば、その陸軍等の多くが、精鋭であるとして、フランス本土から引き抜かれて、ユーゴスラヴィア王国に向かう事態が起きたのだ。
これはヒトラー総統が、精鋭をユーゴスラヴィア王国に派遣することで、速やかに内戦を鎮めるようにドイツ軍に強硬に主張したことから起きたことだった。
そして、ヒトラー総統の主張はそれなりに正しく、速やかにユーゴスラヴィア王国の内戦は鎮まることになって、後から振り返れば、それは誤っていたことが最終的には更に分かるのだが。
この1941年4月末の時点では、ドイツ軍の精鋭が速やかにユーゴスラヴィア王国から抜けられるのか、というと英仏日等の連合軍内では否定的な意見が極めて強かったのだ。
ともかく、こうした背景が、英仏日等の連合軍首脳部内で、両翼包囲でドイツ軍を殲滅して大勝利を収めよう、という主張を強める事態を起こしていた。
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