第24章―6
そういった通信面を始めとする様々な改善が行われた結果として、日本海兵隊は、英仏軍の第一線部隊と肩を並べて戦えるだけの存在に猛訓練等によって成ることが、1941年4月末の段階でなっていた。
尚、これは皮肉なことに、日本海兵隊が(相対的にだが)英仏軍と比して、小規模な部隊だった為に可能だった、というのは、どうにも否定できないことだった。
(更に言えば、日本海兵隊は海軍所属であるのに、陸軍から大量の士官、下士官が派遣されることによって、急激な規模の拡大を行なうことが出来たのだ。
この世界の1941年春時点の英仏軍等と比較すれば、日本海兵隊は極めて小規模なモノではあったが、1930年代末近くになるまで、平時においては師団規模の海兵隊、特別海軍陸戦隊の編制等、全く考えていなかった日本海軍にしてみれば、本音で言えば不可能としか言いようが無い、急激な海兵隊の規模の拡大としか、言いようが無いのが現実だった。
だが、様々な裏事情(例えば、ソ連軍の満蒙への大攻勢発動を懸念して、それに対する防衛体制を固める為には、米国政府からのレンドリースが必要不可欠だが、米国政府はレンドリースは対独戦の為だとして、ソ連軍に対する防衛体制構築の為に、日本に対してレンドリースを行なうのは、極めて消極的だった)から、日本陸軍が日本海兵隊への士官、下士官の大規模な派遣を決断したことから。
日本海兵隊は4個師団という規模にまで拡大して上で、1941年5月初頭を期しての、英仏日等の連合軍による反攻作戦に参加することが出来ることになったのだ。
だが、これでは余りにも小規模な部隊だ、と言われても仕方が無かったが。
これまでの(この世界なりの)ユダヤ人との関わりから、表面上は英領パレスチナ部隊、実際には英軍の指揮下にあるユダヤ人部隊との連携を、日本海兵隊は行うことが出来ることになっていた。
更に言えば、ヒトラー総統率いるドイツ政府が、様々なユダヤ人迫害を(史実同様に、この世界でも)行ってきたこと。
そして、(この世界の「上海事件」や、第二次世界大戦時のベネルクス三国における大規模なユダヤ人虐殺事件等が)この世界で広まったことから、世界中に散らばっていたユダヤ人が憤って、ヒトラー総統を許すな、ドイツ政府を許すな、と叫ぶ事態が起きて、積極的にユダヤ人部隊に参加する事態が起きたことから、陸上部隊だけでも、ユダヤ人部隊は、1941年4月末段階で6個師団が編制されるまでに、規模を拡大する事態が起きたのだ。
(尚、ここまで規模を急激に拡大するとなると、ユダヤ人部隊も日本海兵隊と同様に、士官や下士官の育成に苦労する事態が起きたのだが。
世界各国のユダヤ人士官、下士官が辞職して、英領パレスチナ部隊、ユダヤ人部隊に参加することが相次いだ為に、日本海兵隊よりは相対的にだが、苦労せずに済んだ事態が引き起こされた)
その為に、1941年4月末段階で、日本海兵隊はユダヤ人部隊と共闘すれば、約10個師団、約30万人規模にまで、陸上部隊のみでも膨れ上がることになったのだ。
そして、ここまで規模が拡大すれば、いわゆる軍規模どころか、方面軍規模、小規模な軍集団規模と言われても、過言ではない大規模な軍になる。
そういった背景から、何とも皮肉なことに、この時に欧州に派遣されていた南雲忠一中将は、現場における日本海兵隊総司令官として、事実上は英仏軍と伍して動かざるを得なくなる。
南雲中将曰く、
「水雷屋の自分が、陸戦で名声を博すとは、何とも言えなかった」
そんな半ば愚痴を、第二次世界大戦終結後に南雲中将は零す事態が、こういった背景から引き起こされることになったのだ。
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