第19章―9
そんなドタバタが起きることもあったが、1941年春、具体的には5月を目途にして、日本海兵隊の再編制の完結が目指されることになった。
更に言えば、1941年5月というのには、それなりの理由があった。
「(仮称)一式中戦車の初陣ですか」
「そうだ。57ミリ砲(英軍流に言えば6ポンド砲)を主砲として装備して、砲塔正面は50ミリ、何れは80ミリにまで増大可能な新戦車だ。これならば、ドイツ軍が新型戦車を登場させるにしても、2年程は充分に対抗可能、と考えるがな」
「その代わり、5月まで待つ必要があるですか」
「文句を言うな。新戦車を200両も量産して、ここ欧州にまで輸送するとなると、それなりどころではない手間暇が掛かるんだ」
そんな会話を、現場の戦車兵達はかわすことになった。
(尚、更なる余談をすれば、一式中戦車への装備の改編が済み次第、これまで日本海兵隊に装備されていた97式中戦車改(通称、99式中戦車)は、フィンランドに叩き売られることになっている。
これは少しでも装甲兵力の強化を図りたいフィンランドと、少しでも売却益を得たい日本、その双方の思惑が奇妙に一致した結果と言えた)
そして、これまでのドイツ軍との死闘の結果、戦訓から、日本海兵隊上層部は、1個師団辺り1個戦車大隊(1個大隊当たりの戦車数は54両)を配備して、ドイツ軍との新たな戦場に赴こう、という判断を下したのだ。
それこそ皮肉極まりないことだが、日本海兵隊は完全自動車化を果たそうとしている。
そして、それを活かした戦術を執ろうとするならば、日本海兵隊は戦車師団(機甲師団)化を図るべきかもしれないが、流石にそれは無理な話だ。
それ故に、各海兵師団に戦車大隊1個を配備することで、それなりに戦車が不足している現状を補おうと画策することになったのだ。
尚、200両余りの戦車を集中して、日本海兵隊内で、戦車(装甲)師団を編制しようと話が全く出なかった訳では無いが、流石に止めてくれという声が、日本陸軍を中心にして、更に日本海軍内からも上がったことから、沙汰止みになった。
(何しろ、日本陸軍でさえも、日本国内の自動車生産力の低さ等から、戦車連隊を集めた戦車団を編制するのが、ほぼ精一杯なのだ。
機械化歩兵どころか、自動車化歩兵連隊を複数編制するのさえも困難なことから、せめて戦車だけでも集中しようということで、戦車団を編制することでお茶を濁しているのが、この世界の日本陸軍の現実だった。
そうした現実がある中で、幾ら米国のレンドリースの賜物とはいえ、日本海兵隊が戦車(装甲)師団を編制するようなことがあっては。
陸軍関係者が唖然とする一方、海軍関係者にしても、世界初の海兵隊が保有する戦車(装甲)師団の編制等はやり過ぎだ、との声を挙げざるを得なかったのだ)
そして、ドイツ軍の戦車の猛威を、第二次上海事変以来、骨身に染み込まされていることから、各海兵師団に配備される1個対戦車砲大隊にしても、一桁違う代物と言って良い状況になっている。
一式中戦車が制式化されたからといって、すぐに九七式中戦車の生産ラインを閉じるのは困難だ。
そうしたことから、九七式中戦車の車台に、九〇式野砲を固定砲塔として搭載した一式砲戦車が、自走対戦車砲として制式採用されることになったのだ。
(尚、砲塔正面装甲こそ50ミリあったが、オープントップの固定砲塔の為、一式砲戦車は航空攻撃に極めて脆弱だった。
この辺りは批判されて当然だが、その一方で生産性等からやむを得ない、と擁護する声もそれなりにあるのが現実である)
そういった装備の充実により、ドイツ軍と渡り合える海兵師団は編制されることになった。
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