第18章―10
そんな悪戦苦闘を、米内久子が繰り広げている頃、カテリーナ・メンデスは、表向きは英領パレスチナの航空部隊であるユダヤ人部隊の一員として、奮闘する羽目になっていた。
本来から言えば、表向きは英領パレスチナの航空部隊である以上、ユダヤ人部隊は、英空軍の指導等に全面的に従うのが当然なのだが。
ユダヤ人部隊が発足した経緯が経緯である。
(それこそナチスドイツが行ったユダヤ人迫害の果てに、日本にまで一部のユダヤ人は逃れる羽目になり、更にそう言った背景から、日本政府の働きかけもあって、英国政府はユダヤ人部隊を編制したのだ)
その為に、割合、我が儘が通る現実があり、そうしたことから、それなりの機種(流石に英空軍の現在の最新鋭機といえるスピットファイアには、手を出せなかったが)ならば、自分の部隊に配備して欲しい、と英空軍上層部にユダヤ人部隊は訴えることが可能だったのだ。
そうした背景から、この際、日本陸軍航空隊が米軍機導入審査を行なうのに積極的に協力して、日本軍機なり、米軍機なりを、自分の部隊に配備して貰おう、とユダヤ人部隊は画策することになった。
そして、ユダヤ人部隊の一部が、ブレストに赴くことになり、その余波がカテリーナにまで及んだ次第だった。
ともかく、この当時のカテリーナの主な任務は、日本陸軍の面々との間の通訳任務だった。
カテリーナは、日本に住んでいたことがあり、更に米内洋六少佐と親しかったことから、それなりに軍事用語に軍人になる前から親しんでもいた。
この為に、日本陸軍の面々との通訳に好適とユダヤ人部隊上層部に判断され、又、実際にカテリーナはその判断が正しかったのを示す活躍をしていた。
(尚、この際にカテリーナの言語を説明すると、家族内での会話は、基本的にラディーノ語だった。
これはメンデス家が15世紀末までスペインに住んでいたことからの名残りと言えた。
そして、スペインからヴェネツィアへ、更にオスマン帝国へとメンデス家は移住して行き、カテリーナが物心付く頃には、オスマン帝国崩壊に伴う難民として、メンデス家は上海に移住していた。
更に、「上海事件」に伴って、カテリーナ達は日本へ、横須賀へと逃れたのだ。
そうしたことから、カテリーナは、中国語(上海語)と日本語を普通に話すことができたのだ。
その一方で、ユダヤ人として、ヘブライ語を家族や友人、知人同士で学び合いもした。
そうしたことから、カテリーナはヘブライ語もそれなりに理解し、会話等をすることができた。
ちなみに1940年秋現在、カテリーナの英語は、片言よりはマシといったところだった。
尚、ユダヤ人部隊内では、本来ならば英語を使うべきなのだが、世界各国のユダヤ人が集っていることから、ヘブライ語が事実上は優勢なのが現実であり、カテリーナも部隊内では、英語がそう上手くないこともあって、ヘブライ語を使うことが多かった)
そして、カテリーナは、この地に派遣されたユダヤ人部隊の操縦士16人(内4人が女性)中では、一番、日本語に練達していたこと(尚、他に4人程、日本語が分からなくも無かったが)から、加藤建夫少佐他の飛行第64戦隊の面々に気に入られるようになっていた。
そして、今日も今日とて、カテリーナは、日本陸軍の百式戦闘機と、ユダヤ人部隊のハリケーン戦闘機の模擬戦闘を地上で観戦し、加藤少佐を始めとする日本とユダヤ人、双方の観戦者等の面々の感想を、お互いに伝え合う任務に就いていた。
「中高度以上となると、ハリケーン戦闘機では、どうも百式戦闘機には勝てないようだな」
「低空域ならば、何とかなりそうですが」
そんな会話が交わされるのを、カテリーナは通訳した。
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