第17章―13
そんな感じで、バトルオブブリテンは展開されたが、1940年9月一杯で、最終的にドイツ空軍による英本土への大規模空襲は、ほぼ中止される事態となった。
(尚、あくまでも大規模空襲が中止された、ということであり、その後も1940年中は、ドイツ空軍は隙あらば英本土に対する中小規模の空襲を試みることになったと言って良く、それを英空軍等は迎撃することになったのだが)
さて、何故にそうなったのか、というと。
それこそ1940年8月、9月という二月の間に約4000人の戦死者、又は行方不明者、英軍等の捕虜という損害を、ドイツ空軍は被ったのであり、それだけの搭乗員が失われたというのが大きい。
流石にこの当時では世界最大規模の戦術空軍を保有していたドイツ空軍と言えども、僅か2月で4000人も搭乗員を失う事態には耐えきれなかったのだ。
更にこれまでのノルウェーやベネルクス三国、フランスとの戦いによって、それこそ教官クラスの熟練搭乗員がそれなりに失われている、という事情も加わってくる。
そうしたことから、ドイツ空軍は搭乗員教育にも問題を抱えつつあったのだ。
その一方で、英国を始めとする英仏等の連合国空軍が失った搭乗員は、1000人近くに止まった。
結果論だが、バトルオブブリテンで、ドイツ空軍は4倍以上の搭乗員を失ってしまったのだ。
(勿論、戦争中にそういったことの詳細が、お互いに分かる訳が無いのだが、そうは言っても、双方の戦場での情報収集によって、ドイツ空軍の方が多大な損害を被った、と双方が判断する有様だったのだ)
この大損害は、ドイツ空軍にしてみれば、終わりの始まりと言えた。
それこそ短期決戦をドイツ空軍は想定して、搭乗員の養成等を行って来ていたのだ。
それなのに、僅か二月で約4000人もの戦死、行方不明、捕虜を出すような事態が起きては。
更にこれまでのノルウェーやベネルクス三国、フランス戦でも(史実以上の)戦死者等を出しており、それを少しでも補う為に、教官を最前線に投入するようなことをして、教官にも戦死者を出していては。
勿論、完全に不可能になった訳では無いが、ドイツ空軍にしてみれば、新たな搭乗員育成に困難をきたす一方で、最前線に投入できる搭乗員の不足に頭を痛める事態が引き起こされるのは、どうにもならないこととしか、言いようが無かったのだ。
更に言えば、最前線に投入しようとする搭乗員が不足している以上、どうしても訓練不足の搭乗員でも最前線に投入しない訳には行かない、というジレンマが引き起こされてしまう。
幾ら実戦こそが最良の訓練と言う言葉があるとはいえ、実戦に投入される前にそれなりの訓練を積み重ねていないと、それこそ無駄に大量の戦死者を出すのが関の山、と言う事態が引き起こされてしまうのは当然のこと、と言って良い。
だからこそ、1940年9月末の時点で、ドイツ空軍は英本土に対する航空撃滅戦の中止を決断せざるを得なくなり、ヒトラー総統やその周囲は、ドイツ空軍のこの決断を表向きは非難するものの、最終的には受け入れざるを得ない、と判断することになった。
幾らヒトラー総統が、(感情論で)ドイツ空軍の決断を非難しようとも、ドイツ空軍から提示される様々な資料に、自らが目を通す程に(理性では)ドイツ空軍の決断を受け入れざるを得なかった。
そして、1940年10月初め以降、数か月に亘って、西部戦線はほぼ小康状態に陥ることになった。
ドイツは空軍を始めとして、懸命に戦力再構築に専念することになったからだ。
英仏日等も、時間は自らの味方であるとして損害を補充して、米国からの大規模な支援の到達を待ち望むことになったからだった。
ご感想等をお待ちしています。




