第14章―6
そんな様々な事態が、ベルギー国王のレオポルド3世に起きた一方で、ベルギー政府は臨時にロンドンに亡命政権を樹立して、ドイツに対する抗戦を続けることになった。
そうした状況にベルギーが置かれた中で、オランダ、ベルギーから逃れたユダヤ人を主体とする難民の多くが、何とか1940年6月10日頃に相次いで、ノルマンディー、ブルターニュ半島まで逃れることに成功し、(一部の人からは不法占拠と言われるだろうが)いわゆる難民キャンプを仮設して、当面の安住の地とする事態が起きていた。
尚、言うまでも無いことかもしれないが、日本の海兵師団やユダヤ人部隊、(通称)イスラエル師団の面々も、後衛戦闘を何とか果たした上で、難民キャンプの傍に駐屯地を仮設することになっている。
とはいえ、海兵師団やイスラエル師団にしてみれば、これからのことを考えざるを得なかった。
海兵師団やイスラエル師団が、何とかたどり着いたのは、ノルマンディー半島のカーン市近郊だった。
英仏両国軍の最上層部からの指示を受け、海兵師団やイスラエル師団はドイツ軍がこの地への侵攻作戦を実際に発動した場合に備えた陣地構築に、休む間もなく取り組まざるを得ないのが現実だったのだ。
(序でに述べれば、主にベルギー方面から退却、転進してきた英仏両国軍の主力部隊は、英仏両国軍最上層部の指示に従って、ノルマンディー、ブルターニュ半島を固守できるように陣地帯を徐々に建設していくことになった。
その様相は、口の悪い外部の者、特に軍事関係者に言わせれば、第一次世界大戦初期の西部戦線で起きたいわゆる「海への競走」の再現ではないか、と言われるような状況ではあった。
だが、その一方で、そういった陣地帯の建設を行うことで、ベルギーから退却して来た英仏両国軍の将兵の士気は、徐々にではあったが持ち直していくことになった。
陣地帯に依ることで、自分達の身が守れる、敵であるドイツ軍の攻撃を凌げる、更には反撃が何れは出来る、と英仏両国軍の将兵は徐々に考えるようになった。
更に実際に、様々な支援、航空隊による爆撃や戦艦等の軍艦による艦砲射撃等が行われたのもあるが。
それによって、実際に陣地帯に依ることで、ドイツ軍の攻撃を跳ね返すことが、徐々に起きるようになったことが、更に英仏両国軍の士気を高める等の事態を引き起こし、1940年一杯に亘り、ノルマンディー、ブルターニュ半島を主な拠点として、英仏両国軍が死守できる事態が起きた。
そのことが、その後でノルマンディー、ブルターニュ半島からの英仏両国軍を主力とする反攻を可能にする事態を引き起こしたのだ)
話がズレかねないので、米内洋六少佐が、駐屯地を構え、陣地帯を構築している現場の話をすると。
「対戦車壕をキチンと掘るんだ。そこは、こうした方が良い筈だ」
「塹壕を掘るにしても、排水に気を付けろ。今が夏だからと言って油断していると、後で秋になってから、塹壕足という傷害を負いかねないぞ」
そんな感じで、小隊長や分隊長が部下の将兵を督励しながら、陣地帯を構築しているのを見守りつつ、時として。自らの意見、指導を中隊長を介して行う日々を、米内少佐はこの駐屯地にたどり着いて、すぐに送らざるを得なくなっていた。
米内少佐は、自分が率いる海兵大隊が基本的に受け持つことになった陣地帯、防衛線の構築について、それなりに誇りを自他共に持てるように準備を進めつつあったが。
その一方で、現状に忸怩たる想いを抱かざるを得なかった。
もう少し英仏両国軍が、キチンとドイツ軍の侵攻に対処できていたならば、ここまでに追い込まれることはなかったのでは、と自分としては考えざるを得ないな。
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