第14章―5
ドイツ軍のフランス本土侵攻作戦の推移だが、(メタい話にどうしてもなり、又、史実よりは遅いと言われるだろうが)順調に進むことになった。
1940年6月5日はベルギー軍全てが降伏の止む無きに至った。
そして、ベルギー国王レオポルド3世はドイツ軍の捕虜となり、ベルギー国内にあるラーケン宮殿で幽閉、軟禁生活を送ることになった。
これについては、オランダ女王ヴィルヘルミナやルクセンブルク女大公シャルロットが、本国を捨てて亡命生活を送った事態と比較され、レオポルド3世も同様に本国から亡命して抗戦すべきだった、というベルギー本国内外からの批判が為される事態が、21世紀になっても続いているのだが。
この辺りはオランダとルクセンブルクでは女性君主を頂いていたことから、君主イコール国軍の最高指揮官で無かったのに対し、ベルギーのレオポルド3世は国軍の最高指揮官だった、という事情を無視しているという再批判が行われる事態が起きている。
それこそ、国軍の最高指揮官が国外に亡命するのは、敵前逃亡ではないか、という再批判があるのだ。
とはいえ、ここに至るまでのレオポルド3世の行状(尚、史実でもほぼ同じことをやらかしている)から、批判されても当然だ、という声が高いのも止むを得ないことだった。
言うまでも無いことかもしれないが。
ベルギーは北部のフラマン(オランダ)語地域と南部のワロン語地域、更に首都ブリュッセル地域からなる(この当時は事実上ではあるが、連邦)国家である。
更に厄介な事と見る人もそれなりにいるが、ベルギー国内でオランダ語、ドイツ語、フランス語(細かくややこしい話になるが、ワロン語とフランス語はラテン系言語ではあるが異なる言語とされ、ベルギー国内では非公用語の地方言語に、ワロン語はなっている)の3つの言語が公用語となっている。
ともかくそういった国内事情から、ベルギー王室は国内融和に長く努めざるを得なかった。
何しろ国民の約四分の三がカトリックとはいえ、プロテスタントやユダヤ教徒もいる現実がある。
言語や宗教の対立が火を噴いて、国が分裂する危険を痛感せざるを得なかったのだ。
そうした背景から、第一次世界大戦の教訓にも関わらず、ベルギー王室、政府は中立主義を採らざるを得なかったと言っても過言ではない。
だが、どんな物事にも限度がある。
第二次世界大戦勃発に伴い、ポーランド、デンマーク、ノルウェーがドイツの侵略の毒牙に掛ったにもかかわらず、レオポルド3世は中立主義を固守しようとした。
(それ以前のチェコスロヴァキア解体やオーストリア併合等までも考えるならば、ドイツの侵略主義に対する警戒を欠いていた、とレオポルド3世は批判されて当然である)
更に言えば、レオポルド3世は反ユダヤ主義者でもあった。
そういった事情から、英仏両国を中心とする諸外国や、ドイツの占領下で苦しんだベルギー国内の多くの国民から、レオポルド3世は第二次世界大戦中から戦後にかけて批判される事態が起きた。
(実際、第二次世界大戦中にベルギー国内に残っていたユダヤ人に対してドイツ政府、軍が行った様々な迫害を、レオポルド3世は知っていながら、黙認していたという疑惑が未だに付きまとっている)
こういった事情から、第二次世界大戦勃発直後から、レオポルド3世が積極的に英仏に協力していれば良かったのだ、又、実はレオポルド3世はナチスに私淑していた、と言うレオポルド3世への様々な批判の声が、第二次世界大戦後にベルギー国内外で起きたのは、ある程度は止むを得ない話だった。
その為に先走った話になるが、レオポルド3世は第二次世界大戦後に退位せざるを得なかったのだ。
この辺りのレオポルド3世の行動等については、史実をそれなりに参考にさせてもらいました。
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