第五十話
帝都アルテミスの朝は、いつもより静かに感じられた。宿屋の窓から差し込む朝陽が、リリィの寝顔を柔らかく照らしていた。私はベッドの端に腰かけ、彼女の小さな手をそっと握った。リリィの寝息は穏やかだったけど、昨夜の灯台での出来事が、私の心に重くのしかかっていた。
あの男の言葉――リリィがクロノスの情報を得るために耐えた屈辱。リリィの涙と、彼女が自分を「汚い」と言った声が、頭から離れない。私はリリィを守れなかった。彼女が一人でそんな思いをしたなんて、考えるだけで胸が締め付けられる。レオンやガルドも同じ気持ちだろうけど、私には特別な責任がある気がした。だって、リリィは私の宝物なんだから。
リリィが目を覚ましたとき、私はいつもの笑顔を浮かべようとした。
「おはよう、リリィ。今日はいい天気だよ」と軽く話しかけたけど、彼女の反応はどこかぎこちなかった。いつもなら飛びついてくるのに、今日は小さく頷くだけで、すぐに目を逸らしてしまった。その仕草に、私は心がチクッと痛んだ。
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朝食の時間も、リリィの態度は変わらなかった。レオンがクロノス追跡の次の作戦を話す中、リリィは黙ってパンをちぎっていた。ガルドが冗談を飛ばしても、彼女は無理に笑うだけで、すぐにうつむいてしまう。私はリリィの隣に座り、さりげなく手を伸ばしたけど、リリィは体を少し引いて、触れられるのを避けた。
「リリィ、どうしたの? 何かあったら、話してね」
私はできるだけ優しく声をかけた。リリィは一瞬、私を見上げたけど、すぐに目を伏せて呟いた。
「ううん、なんでもないよ、ミリア……」
その声は小さく、どこか遠い。
私はリリィが心を閉ざしているのを感じた。彼女はまだ、昨夜のことを引きずっている。自分を汚いと思ってる――そんな風に感じているんだ。
私は笑顔を保ちながら、内心で決めた。リリィをこのままにしておけない。彼女の心の傷を癒して、昔の明るいリリィを取り戻したい。そのためなら、どんなことだってする。
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昼近くになって、私はリリィを誘った。
「ねえ、リリィちゃん、ちょっと出かけない? 街の公衆浴場、行ったことないよね。すっごく気持ちいいんだから、一緒に行こうよ!」
リリィは少し驚いた顔をしたけど、すぐに目を逸らした。
「うーん、でも、私、いいかな……」
その躊躇いが、余計に私の決意を固めた。私はリリィの手をそっと握り、強引にならないように笑った。
「だーめ! リリィちゃんと一緒に行きたいの。私のお願い、聞いてくれるよね?」
リリィは少し困ったように微笑み、渋々頷いた。
「うん、ミリアがそう言うなら……」 その小さな承諾に、私は心の中で安堵した。これでいい。少しずつ、リリィの心に近づいていけるはず。
アルテミスの公衆浴場は、街の中心から少し離れた場所にある大きな石造りの建物だった。外壁には蔦が這い、入口には花の香りが漂う。浴場の中は、湯気と石鹸の匂いが混じり、女たちの笑い声が響いていた。私はリリィの手を引き、脱衣所に向かった。
リリィは服を脱ぐとき、少し体を隠すようにしていた。彼女の白いタイツを脱ぐ手が震えているのが見えた。私は何も言わず、ただ自分の服を脱ぎながら、リリィに安心感を与えようと笑顔で話しかけた。
「リリィ、ここのお湯、すっごく温かいんだよ。疲れが全部飛んじゃうんだから!」
リリィは小さく頷き、私の後について浴場に入った。広い浴槽には透明な湯がたっぷり張られ、天井の窓から差し込む光が水面で揺れていた。他の客はちらほらいたけど、奥の小さな洗い場は空いていた。私はリリィをそこに連れていき、桶に湯を汲んだ。
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「リリィちゃん、座って。私が洗ってあげるね」
私は桶を手に、リリィの前にしゃがんだ。
リリィは一瞬戸惑った顔をしたけど、素直に石の床に座った。彼女の小さな体は、湯気の中でほんのり赤く染まっていた。
私はスポンジに石鹸を泡立て、リリィの肩にそっと触れた。
リリィの体が一瞬硬直した。
私はその反応に気づきながら、ゆっくりと手を動かした。彼女の肩から腕へ、細い指先まで、丁寧に泡で洗っていく。
リリィは黙ったままだったけど、彼女の呼吸が少しずつ落ち着いていくのが分かった。
「リリィの肌、ほんと綺麗だね。こんなにすべすべで、まるでシルクみたい」
私はわざと明るい声で言った。リリィは目を伏せ、かすかに呟いた。
「そんなこと……ないよ。ミリア、私、汚いから……」
その言葉に、私の胸が締め付けられた。私はスポンジを置き、リリィの頬に手を当て、彼女の目を見つめた。
「リリィ、聞いて。君の体は汚くないよ。君はクロノスを追うために、すごく勇気を出したんだ。それって、誰にでもできることじゃない。君の体は、君の強さの証だよ。こんなに綺麗で、愛おしいんだから」
リリィの目が揺れた。彼女の唇が震え、涙が一筋、頬を伝った。
私はその涙を指で拭い、リリィの背中を抱き寄せた。
「リリィ、私には関係ないよ。どんなことがあったって、君は私のリリィだよ。いつもそばにいるよ」
リリィは私の胸に顔を埋め、静かに泣いた。彼女の小さな嗚咽が、湯気の音に混じる。私はリリィの髪を撫で、彼女が落ち着くのを待った。やがて、リリィが顔を上げたとき、彼女の目は少しだけ明るさを取り戻していた。
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私はリリィの体を洗い終え、彼女の髪を丁寧にすすいだ。リリィの金色の髪は濡れて輝き、まるで月の光のようだった。私はリリィの顔を見つめ、ふと、衝動に駆られた。彼女の心の傷を癒したい。彼女に、私の気持ちを全部伝えたい。
「リリィ、ちょっと目、閉じてて」
私が囁くと、リリィは少し不思議そうな顔をしたけど、素直に目を閉じた。私はそっとリリィの顎に手を添え、彼女の唇に自分の唇を重ねた。
リリィの体がびくっと震えた。私は一瞬、離れようか迷ったけど、リリィの手が私の腕をそっと掴んだ。その小さな力が、私に勇気をくれた。私はリリィの唇を優しく味わい、彼女の温もりを全身で感じた。リリィは最初驚いていたけど、すぐに私のキスを受け入れ、ぎこちなく唇を動かした。
キスが終わると、リリィの顔は真っ赤だった。彼女は目をぱちぱちさせて、私を見つめた。
「ミ、ミリア……な、なんで……?」
私は笑って、リリィの額に軽くキスした。
「だって、リリィちゃんが大好きだから。君の全部が、私の宝物だから」
リリィの目からまた涙がこぼれたけど、今度はそれは悲しみの涙じゃなかった。
彼女は私の首に腕を回し、ぎゅっと抱きついてきた。
「ミリア……私も、ミリアのこと大好きだよ……ありがとう……」
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浴場を出るとき、リリィの態度はまるで別人のようだった。
彼女は私の手を握り、いつもみたいに無邪気に笑った。
私はその笑顔を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。リリィちゃんの心のわだかまりは、完全に消えたわけじゃないかもしれない。
でも、今日、彼女は私の愛を信じてくれた。
それだけで十分だ。
宿屋に戻ると、レオンとガルドが私たちを待っていた。
リリィはガルドにちょっかいを出し、レオンに笑いかけ、まるでいつものリリィちゃんに戻っていた。私はその姿を見て、静かに微笑んだ。
「ミリア、なんかいいことあった?」
ガルドがニヤニヤしながら聞いてきた。
私はリリィちゃんの頭を撫でながら答えた。
「うん、ちょっとね。リリィと、もっと仲良くなれたよ」
その夜、リリィちゃんは私の隣で眠った。
彼女の小さな手は私の手を握ったままだった。私はリリィちゃんの寝顔を見つめ、心の中で誓った。どんなことがあっても、リリィを守る。彼女の笑顔を、ずっとそばで見ていたい。




