第四十八話
帝都アルテミスの街は昼間でも、路地裏に一歩踏み入れば別の世界だった。陽光が届かぬ石畳は湿り気を帯び、壁には苔や汚れがこびりつき、空気には酒と汗、そして何か得体の知れない匂いが混じる。魔王軍の戦術家クロノス――その名を追う勇者たちの調査は難航していた。クロノスはまるで影のように姿をくらまし、手がかりはいつも霧の中に消える。そんな中、リリィは再び単独で路地裏へと足を踏み入れていた。
リリィの白いタイツと簡素なチュニックは、この場所ではひどく浮いていた。
彼女の青い瞳は鋭く周囲を観察し、小さな体はいつでも動けるよう緊張していた。
以前、路地裏で得たクロノスの情報は不確かだった。
あのときの屈辱と、偽情報を掴まされた悔しさは、リリィの心にまだ燻っていた。
だからこそ、彼女は今、ミリアや他の仲間に内緒でこの場所に戻ってきたのだ。
「クロノスの本当の手がかりを、絶対に見つける」
リリィは心の中で呟き、細い路地を進んだ。
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路地裏の奥に進むにつれ、人の気配が濃くなった。
壁にもたれる柄の悪い男たちが、リリィを睨みつけるように見つめてくる。
露出の多い服を着た女が、煙草をくゆらせながら好色の目でリリィを値踏みした。
彼女たちの笑い声は低く、どこか嘲るようだった。
リリィは視線を無視し、ただ前を見据えた。彼女の心は揺れなかった――クロノスを追うためなら、どんな場所でも進む覚悟があった。
だが、路地のさらに奥、ほとんど光の届かない暗がりに差し掛かったとき、突然の出来事がリリィを襲った。
廃屋の壊れた扉の隙間から、骨ばった腕が伸び、リリィの細い腕をがっちりと掴んだ。
「っ!?」
リリィが声を上げる間もなく、彼女は廃屋の中に引きずり込まれた。
廃屋の中は湿った木材の匂いと埃が充満し、薄暗い光が床に落ちたガラス片を鈍く照らしていた。
リリィが体を捻って逃れようとした瞬間、男の腕が彼女を強く抱き寄せた。
「クロノスについて嗅ぎ回ってるんだってな?」
男の声は低く、いやらしく笑う響きを帯びていた。リリィは男の顔を見上げた。
瘦せた頬に無精ひげ、目はまるで蛇のように冷たく光っている。男の手はリリィの背中を這い、まるで品定めするように彼女の体をまさぐった。
「離して」
リリィは男の腕を振り払おうとしたが、その瞬間、奇妙な感覚が彼女を襲った。
力を込めたはずなのに、まるで足元がふわっと浮くような――バランスが崩れるような不思議な錯覚。男の拘束は緩いはずなのに、なぜか抜け出せなかった。
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男はリリィの抵抗を楽しみながら、彼女の体をさらに近くに引き寄せた。
「お嬢ちゃん、なかなか可愛いじゃねぇか。こんな華奢な体で、クロノスなんかを追うなんて、度胸あるよな」
男の手がリリィの控えめな胸を撫で、白タイツ越しに彼女の華奢な太ももをなぞった。
リリィの顔が嫌悪感で歪んだ。彼女は歯を食いしばり、男の目を睨みつけた。
「触らないで。クロノスのこと…知ってるなら教えて」
リリィは淡々と用件を伝えると男は鼻で笑い、リリィの顎を指で持ち上げた。
「情報はタダじゃねぇよ。このままお嬢ちゃんの体を楽しませてもらえれば、クロノスのことを教えてやってもいいぜ。どうだ?」
リリィの心に、以前の路地裏での記憶が蘇った。
あのとき、偽の情報を掴まされ、仲間たちに迷惑をかけた。
あの失敗を繰り返すわけにはいかない。だが、男の手はすでに彼女のチュニックの裾をまくり、冷たい指先が肌に触れていた。
リリィは一瞬迷ったが、すぐに決断した。
「嫌…嘘の情報はいらない」
リリィの声は鋭く、男の提案をはっきりと拒絶した。
男の目が一瞬驚きに揺れ、次の瞬間、険悪な光を帯びた。
「生意気な小娘だな」
男は突然リリィを壁に押し付け、彼女の唇を強引に奪った。
リリィの目が見開かれ、反射的に男を突き飛ばそうとしたが、男の舌が彼女の口内に侵入し、ねっとりと絡みついてきた。リリィの体が震え、嫌悪と恐怖が胸を締め付けた。
彼女は必死に抵抗したが、男の不思議な体術――まるで彼女の動きを予測し、力を奪うような技術――に阻まれ、拘束を解くことはできなかった。
男はリリィの反応を楽しみながら、彼女の唇を味わった。リリィの小さな喘ぎや、抵抗するたびに震える体が、男の欲望をさらに煽った。だが、リリィは心の中でミリアの顔を思い浮かべ、自分を奮い立たせた。
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男はリリィの体をひとしきり楽しむと、突然動きを止めた。彼はリリィの耳元で囁くように呟いた。
「まぁ、いいさ。お嬢ちゃん、嫌がる姿も悪くねぇけど、俺も忙しい身なんでな」
男は一歩下がり、リリィの目をじっと見つめた。リリィは息を整えながら、男の次の行動を警戒した。すると、男は低く、まるで歌うような声で呟き始めた。
「サルム・ネクタリス……ヴィタエ・フラクス……」
それは呪文だった。リリィの体が突然重くなり、まるで全身の力が抜けていくような感覚に襲われた。
彼女の膝が折れ、その場にへたり込んでしまった。リリィは慌てて立ち上がろうとしたが、手足が思うように動かない。
「何……これ……?」
リリィがかすれた声で呟くと、男は満足げに笑った。
「安心しろよ、殺しやしねぇ。ただ、少し大人しくしてもらっただけだ」
男はリリィの前にしゃがみ込み、彼女の頬を軽く叩いた。
「クロノスのこと、教えてやるよ。聞いて驚くなよ――あいつはな、魔王軍の戦術家じゃねぇ。本当の目的はもっとデカい。奴は『星の門』ってのを探してる。それがどこにあるかは、誰も知らねぇがな。ただ、毎月、月が欠ける夜に、港の古い灯台に現れるって話だ。そこに行けば、クロノスの尻尾くらいは掴めるぜ」
リリィは男の言葉を必死に頭に刻んだ。
星の門、月が欠ける夜、港の灯台――これが本当の情報かどうかは分からない。
だが、男の目は、以前の偽情報をくれた連中とは違う、奇妙な確信に満ちていた。
男は立ち上がり、リリィを見下ろした。
「まぁ、楽しかったぜ、お嬢ちゃん。また会えたら、今度はもっとゆっくり遊ぼうな」
男はそう言い残し、廃屋の闇に消えた。
リリィはしばらくその場にへたり込んだまま、動けなかった。体はまだ重く、心は嫌悪と恐怖で乱れていた。
だが、彼女は歯を食いしばり、ゆっくりと立ち上がった。
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リリィが宿屋に戻ったとき、すでに夜が深まっていた。ミリアはリリィの姿を見るなり、駆け寄って彼女を抱きしめた。
「リリィちゃん! また一人でどこ行ってたの!? 心配したんだから!」
ミリアの声には怒りと安堵が混じっていた。リリィはミリアの腕の中で小さく震え、だがすぐにいつもの笑顔を取り戻した。
「ごめんなさい…ミリア。でも、クロノスの手がかり、掴んだ。」
リリィはミリアと仲間たち――ミリア、レオン、ガルド――に、廃屋で得た情報を話した。
星の門、月が欠ける夜、港の灯台。
彼女は男とのやり取りについては一切触れず、ただ事実だけを伝えた。廃屋での屈辱や恐怖は、リリィの心にしまわれた。
「リリィ、よくやった! これでやっとクロノスに近づけるぞ!」
ガルドが拳を握り、興奮気味に言った。レオンは地図を広げ、港の灯台の位置を確認し始めた。ミリアはリリィの肩に手を置き、穏やかに微笑んだ。
「でも、無茶はするなよ。俺たちで一緒に戦おう」
ミリアはリリィをじっと見つめ、何かを感じ取ったように眉を寄せた。
「リリィ……何かあったよね? 顔、ちょっと青いよ」
リリィは一瞬目を伏せたが、すぐにミリアの手を握り返した。
「大丈夫、ミリア。ミリアがそばにいてくれるから、平気。」
その夜、リリィはベッドの中で廃屋の男の声を思い出した。
あの冷たい手、ねっとりとした唇、呪文の響き――彼女の体はまだ震えた。
だが、ミリアの寝息を聞きながら、リリィは心を決めた。「クロノスを捕まえて、ミリアたちを守る。それが私の戦いだ」
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数日後、勇者たちは港の灯台でのクロノス追跡の準備を始めた。リリィはミリアと並んで歩きながら、路地裏での出来事を心の奥に封じた。あの男の情報が本物かどうかは、まだ分からない。だが、リリィは信じていた――どんな闇にも、必ず光があることを。
そして、ミリアがそばにいる限り、彼女は決して折れないことを。




