第二十一話
交易都市「ルミナス」での休息を終えた勇者一行は、次の目的地である港町「サレント」へと向かうため、船旅を決めた。
魔王の拠点に近づくためには、海を渡るルートが最も効率的だと判断したのだ。
レオンは「船旅なら少しは楽ができるな」
と笑い、ガルドは「海の上で戦うなんてのも悪くねえ」と意気込む。
ミリアは地図を手に「天候に気をつけないとね」と慎重に計画を確認し、リリィはいつものように無言で一行の後ろをついて行った。彼女の手には「魔斬りの刃」がスコップの形のまま握られ、狩猟刀が腰に差されている。
船はルミナスの港から出航した。中型の帆船で、船員たちは慣れた手つきで帆を操り、風を捉える。
船が岸を離れ、海原へと進むにつれ、視界が開けた。どこまでも広がる青い水面、遠くに霞む水平線、そして波間に反射する陽光。
レオンとガルドは船首で景色を楽しみ、ミリアは船縁に寄りかかって風を感じていた。
リリィは甲板の中央に立ち、じっと海を見つめていた。
彼女にとって、海は初めての存在だった。
これまで森や山、街や迷宮を旅してきたが、こんなにも果てしなく広がる水の世界は想像すらしていなかった。
波が船を揺らし、白い飛沫が飛び散る。遠くでカモメが鳴き、潮の香りが鼻をくすぐる。リリィの瞳はいつも通り虚ろだが、その視線は海の動きを追い、じっと離さない。
彼女の手がスコップを握る力がわずかに強まり、何かを感じているようだった。
その様子を、ミリアが穏やかな表情で見つめていた。彼女はリリィに近づき、柔らかい声で尋ねた。
「リリィちゃん、海を見てどう思う?」
リリィは一瞬ミリアを振り返り、少し考えてから答えた。
「わからない。広い…とても広い。でも、それだけじゃない。何か…感じる」
と言葉を紡ぐ。
彼女の声には感情がほとんどなく、ただ事実を述べるような響きだった。
ミリアは微笑み
「そうね、海は広くて深いものよ。何かを感じるって、どういう感じ?」
とさらに問いかけた。
リリィは再び海を見やり、言葉を探すように首を傾げる。
「…大きい。動いてる。生きてるみたい。でも、静かで…うるさい。わからない」
と呟く。初めての海の感想を言語化しようとするが、彼女の心に浮かぶ感覚は曖昧で、形にならない。
ミリアは優しく頷き
「それでいいよ。初めて見るものは、そうやって少しずつ感じていくものだから」と言う。
リリィは「感じる…?」と繰り返し、ミリアの言葉を静かに受け止めた。
二人がそんな会話を交わしていると、突然、船が大きく揺れた。甲板にいた船員が「何かいるぞ!」と叫び、レオンとガルドが船縁に駆け寄る。海面が不自然に盛り上がり、波が乱れる。
そして次の瞬間、水中から巨大な影が浮かび上がった。多数の触手を持つ魔物だった。
体は灰色の粘液に覆われ、太い触手が十数本も蠢き、その先端には鋭い棘が並んでいる。船員の一人が「クラーケンだ!」と叫び、恐怖に震えた。
レオンが剣を抜き、「船を守るぞ!」と号令をかける。
ガルドが長剣を手に「海の怪物か、面白え!」と笑い、ミリアが「私が援護するわ」と魔法の詠唱を始める。
船員たちは慌ててロープや槍を手に持ち、戦闘準備に追われた。リリィは無言で立ち上がり、スコップを構えた。彼女の瞳に映る魔物に、感情は一切宿らない。
クラーケンの触手が船に襲いかかる。
一本が甲板に叩きつけられ、木が砕ける音が響く。
レオンが剣で触手を切りつけ、血のような黒い液体が飛び散る。ガルドが別の触手を長剣で叩き潰し、ミリアが炎の魔法を放って一本を焼き払った。だが、触手の数は多く、次々と船を締め付け始める。船が傾き、船員たちが悲鳴を上げる中、リリィが一歩前に出た。
彼女はスコップを手に持ったまま、触手が迫る瞬間を見計らう。そして、触手が振り下ろされる刹那、スコップを振り上げた。柄が伸び、先端が刃に変化し、一閃。触手が根元から切り落とされ、海に落ちる。リリィは無表情のまま次の触手に狙いを定め、同じように一撃で切り裂いた。彼女の動きは機械的で、まるで感情を持たない刃そのものだった。
クラーケンが怒りに咆哮し、さらに多くの触手を船に伸ばす。リリィは甲板を軽やかに移動し、次々と触手を切り落としていく。一振りで一本、また一振りで一本。血と粘液が彼女の服に飛び散っても、彼女は眉一つ動かさない。レオンが「リリィ、すごいぞ!」と叫び、ガルドが「ははっ、お前がいるなら楽勝だな!」と笑う。ミリアは魔法で援護しつつ、「リリィちゃん、気をつけて!」と声をかけ続ける。
戦闘が続く中、リリィはクラーケンの本体に目を向けた。
触手の根元から突き出た巨大な頭部が、海面に浮かんでいる。
彼女は船縁に立ち、スコップを構える。すると、スコップの柄がさらに伸び、刃が鋭く輝いた。彼女が一気に跳躍し、海面に落下する勢いで刃を振り下ろす。
鋭い一撃がクラーケンの頭部を貫き、魔物が断末魔の咆哮を上げた。
触手が一斉に動きを止め、海に沈んでいく。
船が静寂を取り戻すと、船員たちから歓声が上がった。
「やったぞ!」「あの少女が倒した!」と口々に叫ぶ。レオンが「リリィ、助かった」と息を整え、ガルドが「怪物退治はお前が一番だな」と肩を叩こうとしてやめた。
ミリアがリリィに近づき、「大丈夫?」と尋ねると、彼女は無言で頷き、スコップを元の形に戻した。
その後、甲板に座り込んだリリィは、再び海を見つめた。
戦闘の余韻が残る海面は穏やかになり、波が静かに揺れている。ミリアが隣に座り、「さっきの海の話、続けようか?」と言う。
リリィは少し考えてから、「海…強い。生きてるみたいだった。
でも、今は静か」と呟いた。ミリアは微笑み、「そうね。海はいろんな顔を持ってる。リリィちゃんが感じたみたいに、生きてるみたいに動くこともあるよ」と答えた。
リリィはスコップを手に持ったまま、じっと海を見続ける。
「生きてる…私と違う」と呟く声に、微かな戸惑いが混じっていた。
彼女はこれまで命を奪うことに呵責を感じず、異常者として生きてきた。
だが、海の広大さと魔物の生命力、そしてそれを冷徹に切り裂いた自分自身に、何かを感じ始めていた。
ミリアはそれを察したのか、「違うかもしれないし、同じかもしれない。リリィちゃんがどう思うかが大事よ」と優しく言った。
船は静かに進み続け、サレントへの旅路が続く。
リリィの心に、海の蒼が小さな波紋を刻んだ。
魔王を倒すための戦いはまだ先にある。その中で、彼女は自分自身を知る何かを、少しずつ見つけていくのだろうか。




