証明
南東街区の夜は暗い。というか、基本的にこの世界の夜は闇色が深く、濃い。夜に明かりを灯すことができるのは財力を持った一部の人間だけ。だからケテルでは北部街区や北東街区の一部にしか闇を払う力がない。ケテルの底辺である南東街区の夜に明かりが灯ることはないのだ。外から見た限りは、の話ではあるが。
「お世話になりまーす。トラック清掃でーす」
闇に沈む南東街区に不釣り合いに能天気な言葉が響いた。その場所にはおおよそ南東街区とは思えないほど大きく立派な建物があり、傾きかけた小さな家々が密集する周囲の様子からは完全に浮いている。ここは南東街区の支配者の城――ガトリン一家のアジトだ。
「すみませーん。お掃除に参りましたー」
玄関の扉を無遠慮に叩きながら、一人の男が間延びした声を上げている。ねずみ色のツナギ姿をして、帽子を目深にかぶったその男は、掃除道具一式が入ったカバンを重たそうに揺すった。カバンからはモップやらホウキやらの柄が長く飛び出している。なんというか、お掃除のプロな本舗の人っぽい。帰ってこない返事に若干イライラしたのか、男は扉を叩く拳に力を込めた。
「うるっせぇぞさっきから! 何なんだてめぇは!」
明らかに機嫌悪そうに、若い男が玄関扉を開けて怒鳴った。建物の中から明かりが漏れる。ツナギの男はふぅっ、と安堵のため息を吐くと、嘘くさい営業スマイルを浮かべて若い男に話しかけた。
「トラック清掃です。お掃除に上がりました」
「あぁ? 頼んでねぇよ! 帰れっ!」
若い男は威嚇するようにツナギの男に顔を寄せる。しかしツナギの男は動じる風もなく、やや媚びた表情を浮かべた。
「そんなこと言わないで。今ならなんと五十パーセントオフ! さらにトイレットペーパーが三ロール付いて来る!」
「いらねぇわ! ここは毎日、俺たちがぴかっぴかに磨いてんだよ! チリひとつ落ちちゃいねぇの! ヨソもんに掃除頼む必要ねぇの!」
若い男の言葉に、ツナギの男は小馬鹿にしたような目を向ける。若い男はカチンときたようにツナギの男をにらんだ。
「……何笑ってやがる」
「いえね、まあ素人さんだから仕方ありませんが、この程度でぴかっぴかなんて言われると、つい」
「バカにしてんのか。バカにしてんのか、ああ?」
額に青筋を浮かべて若い男が凄む。怒りを軽く受け流し、ツナギの男はカバンからガサゴソと小さな瓶を取り出した。
「まあまあ、これを見てくださいよ。一見きれいに見えるこの壁、ところがこの洗剤をかけてみると……」
ツナギの男は瓶のふたを開け、中身を壁にぶちまけた。褐色の液体が白っぽい壁に染みを作る。若い男はじっと壁に付いた液体を見つめた。液体は壁を伝い落ちる。ツナギの男はさも当然のように大きくうなずいて言った。
「ほら汚い」
「てめぇが今よごしたんじゃねぇかぁーーーっ!!」
若い男は怒りを叫びながらツナギの男の胸ぐらを掴む。ツナギの男は両手を上げて抵抗の意志がないことを示した。
「暴力反対」
「じゃかぁしぃわアホンダラ! ああぁどうすんだこれ! アニキに怒られる! てめぇ責任もって掃除しろバカヤロウ! 今すぐキレイにしろバカヤロウ!」
胸ぐらを掴んだまま、若い男はツナギの男をがくがくと激しく揺する。ツナギの男は呆れた様子で言った。
「そういうことは掃除業者に頼んでくださいよ」
「てめぇが掃除業者なんじゃねぇのかよっ!! あぁもう、何なんだてめぇ! 何しに来たんだてめぇ!!」
若い男は涙目で叫ぶ。よっぽどアニキが怖いんだろうな、きっと。ツナギの男は「それはもちろん」と答えると、するっと若い男の手を振りほどき、
「――南東街区のお掃除に」
ひょいっと脇に退いて道を開けた。トラックのライトが点灯し、若い男を照らす。若い男は思わず自分の手でライトを遮った。そして――
――ズガァァァァーーーーンっ!!!
トラックが玄関に突っ込み、轟音と共に壁を抉り扉を吹っ飛ばした! 若い男も「ぐへぇ」と声を上げながら扉と一緒に建物の奥に飛んでいく。「うまくやれよ」と言いたげに、手加減が若い男の肩の上からトラックに親指を立てた。
「参りましょう」
トラックの後ろにいたセシリアが、ツナギを脱いだ剣士に声を掛ける。トラックは待ちきれぬとエンジン音を立てて先に進んだ。トラックを追いかけ、剣士とセシリアも建物に入る。
決戦の幕は今、上がったのだ。
「て、てめぇら、どこの組のモンじゃい!?」
短刀を手に、慌てふためきながらマフィアの一人が叫ぶ。いきなり現れた正体不明の侵入者に、マフィアたちは大混乱に陥っていた。右往左往する構成員たちは、満足に迎撃態勢を取ることもできないままとりあえずトラックの前に立ちはだかり、為す術もなく吹っ飛ばされていく。手加減がものすごいスピードで動き回り、トラックの体当たりを受けたマフィア連中を一人も漏らすことなくフォローした。本当に手加減はすごい奴だ。彼の存在なくしてトラックは戦うことができない。ちょっと拝んどこう。心から感謝しております。
「……誘導されてるな」
トラックを追走しながら、剣士は隣のセシリアにそう声を掛けた。セシリアは小さくうなずく。
「予想されていたのでしょう。明らかに統率された動きをする人間が混ざっています」
よく見ると、慌てふためいて無意味に武器を振り回している奴らとは別に、じっと冷静にこちらの様子をうかがい、連携しながら動いている奴らがいる。そいつらは慌てふためいている奴らをさりげなく誘導することで、トラックを進ませる方向を操っているようだった。そして冷静な奴らは決してトラックや剣士たちには手を出さず、自分の役割を終えると素早く姿を消していた。仮にも同じファミリーだろうに、トラックに轢かれる奴らのことなど一顧だにしない。
ルーグはガトリン一家は一枚岩ではないと言っていたが、おそらくファミリー内に派閥のようなものがあり、慌てふためいている奴らと冷静な奴らは派閥が違うのだろう。そしてたぶん、冷静な奴らはヘルワーズの手下だ。ヘルワーズは自分の言うことを聞かない他派閥の人間を不確定要素として切り捨てたのだろう。だから事情の説明もしなかったし、混乱を収めるつもりもないのだ。ただ、利用するだけ。もし多少でもトラック達を疲弊させることができれば御の字、くらいに思っているのかもしれない。
襲ってくるマフィアをいなしながら、剣士たちは硬い表情で前を走るトラックを見ていた。誘導されているということは、どこかで必ず体制を整えた敵が待ち構えているということだ。そしてそこにヘルワーズが、そしてガトリン一家のボスがいるとは限らない。予想したなら事前に逃げている可能性は十分にあるし、今まさに逃げようとしていて、トラック達を足止めしようとしている可能性もあるのだ。ボスを逃がせばガトリン一家を壊滅させたとは言えない。ガトリン一家が存続すれば、ルーグは救われない。
マフィアたちをなぎ倒して進むトラックの前に、やがて大きな両開きの扉が姿を現した。重厚な木製の扉を粉砕してトラックは中に乗り込む。そこは百人くらいが十分な余裕をもって過ごせるほど大きな広間で、そして三十人ほどの完全武装した男たちが、入り口を半円に取り囲むように待ち構えていた。トラックはブレーキをかけ、正面にいるリーダーらしき男と対峙する。セシリアと剣士がトラックの両脇に並んだ。
「この前は世話になったな」
リーダーの男がトラック達に声を掛ける。その男は南東街区の廃墟でルーグと共に待ち構えていたヘルワーズの子飼いの男だった。ルーグを仲間だと言った、あの男だ。
「元気そうじゃないか」
剣士が口の端を上げて答える。「おかげさまでな」、リーダーの男は渋面でそう吐き捨てた。
「大した屈辱だよ。本気で殺す気だったってのに、手加減されて完敗だった。おかげでこっちは誰一人、ケガさえしてないってんだからな」
「良かったじゃないか。ケガがなくて」
白々しい剣士の物言いにリーダーは苦笑いを浮かべる。そして表情を改めると、じっと剣士の目を見つめていった。
「ルーグは、無事か?」
「無事さ。今日も、明日もな」
剣士は揺るがぬ瞳で笑った。リーダーは少し表情を緩めて安どのため息を吐くと、厳しい顔でトラック達を睨み据え、抜き身の長剣の切っ先を向けた。
「ここを通すわけにはいかん」
剣士は侮りのない静かな声で応える。
「結末は、変わらないぜ?」
剣士の言葉を聞いて、リーダーは思いのほか素直に、「そうかもしれん」とつぶやいた。剣士とセシリアが意外そうに目を見張る。
「だが、俺たちが下れば、ヘルワーズは独りになる」
リーダーに同意するように、後ろに控えていた三十人の手下たちがうなずいた。ああ、こいつらはきっと、ヘルワーズが好きなのだ。いいとか悪いとか、勝てるとか勝てないとか、そんなことはどうでもいいのだ。ただヘルワーズのために、ヘルワーズの味方であるために、ヘルワーズを孤独にしないために、こいつらはここにいるのだ。どんな説得も、脅しも、こいつらには意味がない。戦うことだけが、こいつらにとってヘルワーズの味方である証明なのだ。
「マフィアなんて似合わないぜ、あんた」
剣士の軽口のような調子の言葉は、どこか哀惜を含んで場に広がる。リーダーは真面目くさった顔で、
「俺も、そう思わんでもない」
と言った。後ろにいた手下たちが呆れたような苦笑いを浮かべ、場の空気が弛緩する。リーダーは今のこの状況に不似合いな、穏やかな様子で言った。
「南東街区で生まれた。ただ、それだけのことだ」
その言葉を合図に、手下たちから表情が消えた。リーダーは剣を持つ手に力を込める。敵としての表情を作り、リーダーは告げる。
「そろそろ、やろうか」
冷たく重苦しい気配が広場に満ちた。戦いの、誰かの命が消えるかもしれない予感をはらんだ凍えるような運命が、ひたひたと近付く音が聞こえる。
「先に行ってください。今惜しむべきは、時間です」
杖を掲げ、いつでも魔法を使える準備をしながら、セシリアがトラックにそう声を掛けた。同意するように剣士が言葉を継ぐ。
「戦いは頭を取ったほうが勝ちだ。とっとと行ってケリをつけてこい」
トラックは一瞬迷ったようにハザードを焚いたが、短いクラクションを返してぶぉんとエンジン音を立てた。マフィアたちにサッと緊張が走る。リーダーが味方を鼓舞するように吠えた。
「それをやらせないために、俺たちがここにいるんだ!」
トラックが一気にアクセルを踏み、急加速して正面からマフィアたちに突っ込む! リーダーは剣を床に突き刺し、トラックを受け止めるように両手を前に突き出した! 二人の手下がリーダーに並ぶ。三人の後ろには別の手下たちが回り込み、前の仲間を両腕で支えた。その手下をさらに別の手下が支え、マフィアたちは3人×10段の隊列を作り、トラックを迎え撃つ! リーダーの手がトラックの車体に触れ、
「おおおおぉぉぉーーーーーっ!!!」
リーダーの咆哮と共にバチバチっと光が弾けた! トラックの前輪がギャリギャリと音を立てる! 驚いたことにマフィアたちは、トラックの車体を生身で受け止めていた! スゥっと中空に現れたスキルウィンドウが状況を説明する。
「集団スキル【防壁陣】
方形に陣を組み、防御力を強化する」
苦悶の表情を浮かべ、リーダーたちはトラックを受け止めている。スキルは願いに応えて与えられる力だ。たとえ個々の力が及ばなくても、彼らは彼らの願いのために、この戦いに勝たなければならない。想いの強さがスキルとして形を成し、彼らはトラックを阻んでいる。
「大空をはばたくねじくれ角の竜の翼よ。風を打ち、阻む者を吹き散らせ!」
セシリアが杖を掲げ、力ある言葉を放った。翠の瞳が光を帯び、杖から生まれた突風がマフィアたちを襲う! トラックの正面からの突撃への対処に全力を傾けていたマフィアたちは、別方向からの圧迫に耐え切れず、陣形は崩れ、スキルが消滅する。車体を支えきれなくなったマフィアたちは弾き飛ばされ、トラックはそのまま奥へと続く扉を破壊して廊下の向こうへと消えた。手加減を手で振り払いながらリーダーが叫ぶ。
「奴を追え! ヘルワーズのところへ行かせるな!」
手下の一部が命令に反応して奥へと走る。しかし彼らが部屋を出る直前、奥へと続く扉があった場所に足元からいくつもの鉄柱が伸び、行く手を阻んだ。鉄柱は雷を纏い、パリパリと音を立てる。剣士が静かに言った。
「あいつを先に行かせるために、俺たちはここにいる」
「……だったら、お前たちを殺してヘルワーズを助けに行くだけだ!」
強い怒りの眼差しを剣士に向け、リーダーが叫ぶ。手下たちが各々の武器を振りかざし、一斉に剣士とセシリアに襲い掛かった。
トラック清掃は業界クレーム数ナンバーワン! どんなきれいなお部屋でも、廃屋同然にいたします!




