やさしい
ヨシネンと別れ、ミラは一人で夜の森を進む。木々にナビゲートされる彼女の歩みには迷いも不安もない。エルフの目は頼りない星明りも十分に捉え、猫の目のように闇の中で光っている。
やがてミラは駆けていた足を止め、近くの木の陰に身を寄せて気配を消した。もう少し先に行くと森が途切れ、猫人の集落が姿を現す。ミラはその長い耳で村の様子を探っているようだ。
「……誰か、いる」
ミラの耳がぴくっと何かに反応する。誰かの気配を感じた、ということだろう。そしておそらく、ここにいる誰かというのは『屠龍』に違いない。この集落には『屠龍』がいる、ということは、猫人もここにいる、ということだ。ミラは目的地にたどり着いたのだ。
ミラが緊張の面持ちで息を吐き、音を立てないように慎重に木の陰から出て村に近付く。木々が気を遣ってそっと道を開けた。風が枝を揺らしてカサカサと音を立て、ミラの足音を消してくれている。さすがはハイエルフの王女、精霊は彼女の味方だ。
茂る草木に身を隠しながらミラは村の様子を窺うことができるところまで進んだ。低木の間から村の様子を確認すると、案の定、武装した男女が周囲を警戒しているのが見えた。ここから先は身を隠すことのできるものはない。どうやって『屠龍』を排除するか――ミラが乾いた唇を湿した。
――ヒュッ
鋭い風切り音と共にミラの右前方から矢が迫る! ミラの身体を風が覆って辛うじて軌道をそらし、矢はミラの髪を数本千切って背後の木に突き刺さった。スキルウィンドウがスキルの発動を告げる。
『パッシブスキル(ノーマル)【風霊の加護】
風さんとはお友達だから、困ったときには助けてくれるのよ』
か、風さん! お友達でいてくれてありがとう!
一瞬遅れてミラの顔から血の気が引く。身体が硬直し、冷たい汗が噴き出す。弱々しい星の光を遮る影がミラを覆った。本能的に危機を察知して、だろうか、ミラは身体を前に投げ出し、半ば強制的に森を飛び出す。一秒前までミラがいた場所を大斧が薙ぎ払った。木立がへし折れて吹き飛ぶ。
「ありゃ、避けられた」
抱っこしていた飼い猫が腕の中から逃げた、みたいな軽さで、大斧を担いだ男が言った。ミラは荒い息を吐いて立ち上がる。ミラの正面には弓を持った女がいた。女が不可解そうに眉を寄せる。
「……子供?」
「馬鹿言え。ただの子供に俺の斧が避けられるかよ」
どこか不服そうにそう言いながら斧使いが木々の間から姿を現す。前方に弓使い、後方に斧使いと完全に挟まれ、ミラの顔を焦燥がかすめた。
「エルフかな?」
「お、確かに耳が長い」
妙に軽い口調に反して二人の傭兵の眼光は鋭い。不審な動きをすればすぐに消される、そんな緊張感がびりびりと伝わってくる。動くに動けずミラは身を強張らせた。その唇は震え、言葉にならない何かをつぶやいている。
「ちょっと、怖がってるじゃないの。あんたの顔が怖いから」
「冗談。怖いのはそっちだろ? 顔も性格も」
弓使いの女がミラを挟んでギロリと斧使いをにらむ。斧使いはおっと、と視線をそらせた。弓使いからも斧使いからも視線が外れた、その一瞬のスキをついて、ミラは左方向に走り出す。斧使いが瞬時に反応して斧を振り下ろし、地面を砕いて飛び散った石が書けるミラの背を打った。弓使いの矢がミラの右足を貫く。ミラはバランスを崩し前のめりに倒れた。
「血が出ない」
「え、気持ち悪い。実は生ける死体か?」
斧使いが顔をしかめる。ミラは聞き取れぬくらい小さな声で何か言っている。二人の傭兵は散歩のような足取りでミラに近付き、その傍らに立った。
「死体ってわけでもなさそうね。どういうものか分からないけど、珍しい子供」
「そうだな。珍しいってことは」
二人は顔を見合わせて笑う。
『高く売れる』
地面に伏したままミラが拳を握る。傭兵たちはミラに手を伸ばした。ミラの拳が地面を打ち――
――ゴウッ!
ミラの伏す場所から突風が巻き起こり土煙を舞い上げる。傭兵たちは素早く飛びずさって距離を取った。地面が鳴動し、鳥が森から一斉に飛び立つ。ミラを中心にして真白の光が立ち上り、地面に複雑な幾何学模様が浮かび上がる。
「エルフってのは根性が悪いね」
「怖がって震えてるのかと思えば、魔法を唱えてたってか」
傭兵たちは苦々しい顔でミラをにらむ。魔法陣の中の地面が盛り上がり、ミラを空に向かって押し上げていく。土くれはせり上がりながら形を変え、ゆがみ、伸び縮んで一つの像を結ぶ。スキルウィンドウがその正体を告げた。
『召喚魔法【タイタン】
古の巨神は地鳴りと共に現れ、涙と共に去る』
雲が途切れ、月光がスポットライトのように『それ』を照らす。二人の傭兵は大きく目を見開き、ごくりと唾を飲んだ。あたかも主のように二人を睥睨するのは――
――ぐつぐつと煮えたぎった土鍋だった。
えーっと、これってアレだよね。【タイタン】っていうか、【炊いたん】だよね? 関東圏にお住まいの方には馴染みがないかもしれないけど、京都では定番の家庭料理【炊いたん】だよね? 【大根と厚揚げの炊いたん】だよね? しっかりとったお出汁で煮含めた優しいお味のヤツだよね? なんで京のおばんざいがこんなところに召喚されとんじゃぁーーーっ!!
傭兵たちは呆然と【炊いたん】を見上げる。そりゃそうだろうよ。戦いの最中に巨大な土鍋が目の前に現れたってどうせいっちゅーんだ。しかもこの蒸し暑い真夏の夜に。
【炊いたん】は鈍重な動きで身体を傭兵たち向けると、【念動力】で器用におたまを操って木製の椀によそい、斧使いの男に差し出した。斧使いは、何が起こっているのか理解していないような呆けた顔のままで椀を受け取り、立ち上る湯気を顔に当てる。椀の中身に目を落とし、口をつけて、男は膝から崩れ落ちた。
「……ばあちゃんの、味だ――!」
斧使いはまるで子供のようにボロボロと泣き始める。幼いころの大切な思い出が彼自身に心を思い出させた、ということだろうか。なんだろう、共働きの両親は忙しくて構ってくれず、彼を育てたのは優しい祖母だった、しかしその祖母も彼が十五の時に他界し、両親との折り合いの悪かった彼は家を飛び出して傭兵稼業に身を投じた、みたいな背景設定があるのかもしれないんだけども全部俺の推測だから悪しからずっ! いや、だってそうでも思わないとこの反応の説明がつかないんだものっ!!
【炊いたん】は優しく微笑むように体を揺すると、淡い光を放って溶けるように消えた。役割を果たし、召喚される前にいた場所に戻ったのだろう。きっと京都の下町のあったかい食卓に。
斧使いの男は完全に戦意を消失してうずくまり、泣き続けている。ミラは矢に貫かれた足を自ら癒して立ち上がった。はっと我に返った弓使いが素早く弓を構えた。立て続けに放たれた矢がミラを襲う! しかしそれらはすべて【風霊の加護】によって吹き散らされた。忌々しそうに舌打ちをして、弓使いは弓を捨て腰の短剣を抜く。
「相性が悪いね。こいつも役に立ちそうにゃないし、手柄を分けるのは嫌なんだけど」
左手でポケットをまさぐり、弓使いは笛を取り出して強く吹いた。
――ピィーーーッ!!
甲高い音が村に響き渡る。ミラが表情を険しくした。対照的に弓使いはにやりと笑う。
「あんたが誰で、目的が何なのか知らないが、『屠龍』を敵に回したらどうなるか、身をもって知るがいいさ」
村の中から軍靴の足音が聞こえる。ミラは口を引き結んで弓使いをにらんだ。
「やりづらいね!」
苛立たしげに吐き捨てる弓使いの短剣が空を切る。間髪を入れず別の傭兵が振るった鉄槌がミラを捉える、と思った瞬間、不自然に地面に足を取られて傭兵は体勢を崩し、鉄槌は見当違いな場所を穿った。スキルウィンドウが【地霊の加護】の発動を告げる。精霊の加護を最大限に活用し、ミラは四方から迫る傭兵の攻撃をまるで踊るように避け、あるいは捌いていた。風に攻撃の軌道を逸らされ、乾いた地面に突然現れるぬかるみに足を取られ、思うような戦い方ができない傭兵たちはひどく苛ついているようだ。フラストレーションが頂点に達したのか、鉄槌使いが仲間に向かって叫ぶ。
「どいてろ! 一気に片づけてやる!」
言うが早いか、仲間が距離を取るのを待たずに鉄槌使いは大きく鉄槌を振りかぶり、思いっきり地面に叩きつけた! 傭兵たちが口々に悪態をつきながら慌てて後ろに下がる。ミラの足元の地面が割れ、禍々しい光が立ち上る!
『アクティブスキル(レア)【烏龍土吐流光波】
血の底から吹き出す烏龍の破滅の光があらゆる生命を消し去る』
ミラが腕で顔をかばう。真下から襲い来る奔流とミラの身体からあふれた真白の光がせめぎあい、悲鳴のような金属音を立てた。破滅の光が視界を覆う。光が晴れたとき、ミラは地面に膝をつき、辛そうに肩で息をしていた。
「ちょっと、傷物にしたら値が下がるわ」
弓使いが非難めいた視線を鉄槌使いに向ける。鉄槌使いはふんっと鼻を鳴らした。
「うるせぇ。あのままじゃ埒が明かねぇだろうが」
結果オーライだ、と鉄槌使いが胸を張る。呆れた顔をして、弓使いはミラの前に歩みを進めた。
「これ以上抵抗しても無駄よ。殺しはしないから諦めなさい。あんたが何なのかに興味はないけど、あんたみたいなのに興味がある奴らはたくさんいるから、これからはそういう奴らにせいぜい気に入られるように大人しく生きることね」
見下すように、憐れむように告げる弓使いに、ミラはうつむいて、口の端を上げた。
「……時間が、必要だったの」
弓使いは訝しげに眉を寄せる。ミラの声には不安も恐怖もない。
「呼んでから来るまでに時間が掛かるから」
ミラの足元に、さっき【炊いたん】を呼んだ時とは比べ物にならないくらいに複雑な文様が並んだ円陣が浮かび上がり、青白く光を放つ。傭兵たちの顔が強張り、直感的に危機を感じたのだろう、素早く距離を取って身構えた。
「私が呼んでいたのは【炊いたん】だけじゃない。最初から、呼んでいたのはこっち」
光はまばゆいほどに強まり、スキルウィンドウが来訪者の正体を告げる。
『召喚魔法【水の王】
世界の運行を司る四元の王の一者にして大海を統べる者、水の王の助力を受ける』
パシャン、と水が跳ねる音がして、象ほどもある大きさの大魚が魔法陣の中に現れ――ミラの前の地面に横たわる。苦しげに口をパクパクとしながら、ぴちぴちと地面を尻尾で叩いている。大魚、というか水の王は血走った目で傭兵たちをにらんだ。
『こちとらエラ呼吸だよ!』
だったらなんでむざむざやってきたんじゃぁーーーっ!! 最初から召喚に応じるなやぁーーーっ!! 傭兵たちは気が抜けたように笑うと、ぴちぴちしている水の王に近付き、げしげしと蹴りを入れた。
『あ、こら、卑怯だぞ、って痛い。やめろっ! 魚類の虐待で訴えるぞ!!』
水の王の抗議の声に耳を傾ける者はいない。楽しげに顔をゆがませながら弓使いが言った。
「時間をかけて、わざわざこんな役立たずを召喚するなんてご苦労なことだね。どうしてわざわざ地上に魚なんかを呼んだんだかね。馬鹿なことをしたもんだ」
「それは――」
ミラは動じる様子もなく、水の王を見据えた。
「――いちばん、やさしいから」
弓使いは思わずといった様子で噴き出した。
「やさしさなんて――」
「そうまで言われては、仕方ない」
水の王は弓使いの言葉を遮り、不敵に笑った。
「ここを海としよう」
――ばしゃんっ
傭兵たちの足元の地面が不意に消失し、わけも分からぬままに傭兵たちは海に沈む。水の王を中心としたおおよそ半径五十メートルほどの範囲が円形に世界から隔絶し、明らかに不自然に海が出現していた。水の王はまさに水を得た魚のように海を泳ぎ回る。傭兵たちは海面に浮かび上がることもできずに海中でもがいていた。ひとりの傭兵の口から空気の泡が漏れ、海面に向かって上っていく。
『我は水の王。大海を統べる者。我のいるところすなわち、我が大海よ』
水の王は傭兵たちを正面に見据え、大きく口を開いた。口の中にまばゆい光が集まっていく。傭兵たちを射線上に捉えて、圧倒的なまでの『力』が凝集していく。
『水の中で呼吸もできぬ身で、我を侮った傲慢の報いを受けるがいい』
水の王の口から一条の光が放たれ、傭兵たちを飲み込む。避けることも防ぐこともままならないまま、傭兵たちは光に貫かれた。せいせいした、と言うようにくるりと身を翻し、水の王は海面から地上に飛び出した。
水の王が地上に出ると、足元の海は消えて元の地面に戻った。傭兵たちは打ち上げられた魚よろしく地面に倒れている。全員意識を失っているが、生きてはいるようだ。水の王は不快そうに言った。
「このような者ども、生かしておかなくてもよくはないか?」
ミラは首を横に振る。
「トラックが、悲しむから」
水の王はじっとミラを見つめ、心配するようにぴちぴちと尻尾で地面をたたく。
『背負いきれぬものを背負う必要はないぞ。あのトラックとかいう者は、いわば例外だ。誰もがああなれはしない。あれはおおよそ生命というものの枠をはみ出している』
水の王の忠告をミラはあいまいに微笑んで聞いている。小さく息を吐き、水の王は大きく跳ねた。
『【炊いたん】も我も、そう容易く呼べるものではあるまい。あまり無茶をするな。己を大切にできぬ者に事を成すことはできぬぞ』
中空で光を放ち、水の王は言葉を残して空気に溶けるように消えた。わずかに残る光の粒が風に流れる。大きく息を吐いて、ミラは立ち上がった。
「猫人たちを、助けなきゃ」
おそらく猫人たちはどこかの建物に集められ、閉じ込められているのだろう。もしかしたらまた『狼憑き』を投与されているかもしれない。急がねばまた別の敵が現れるかもしれない。重い体を引きずるようにミラは村の中心に向かって――
――ぱちぱちぱちぱち
場違いな拍手の音に驚き、ミラは森を振り返る。木の枝の上に一人の青年が乗っていて、にこやかにミラを見ていた。青年はひょいっと枝を飛び降りると、心底感心したようにミラに笑いかける。
「いやぁ、すごいなぁ。そんなに小さいのに、うちの隊員をまとめて片づけちゃった」
にこやかでやわらかい声音の奥にある、ひどく冷酷な心根を感じ取り、ミラが身構える。おそらく二十歳になっていないだろうその青年は、にこやかな表情を崩さないままミラに向かって頭を下げる。
「初めまして。僕は『屠龍』の『霹靂』隊を率いる、カクって言います」
率いる、つまり、この青年は『霹靂』隊とやらの隊長、ということだ。ミラは強く奥歯を噛んだ。この青年の力がどれほどのものか分からないが、隊長ということは少なくとも他の隊員より強いはず。巨神と四元の王の一者を召喚して疲弊したミラが、『屠龍』の隊長格と戦えるのか?
「それじゃ、自己紹介も終わったことだし」
カクは腰の長剣をすらりと抜いて、
「死んでください」
にこやかな顔のまま、ミラに向かって斬りかかった!
【炊いたん】は夕食のメニューに困ったときに便利なので、習得希望者が多い召喚魔法です。




