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 最後の患者を見送り、院長たち施療院のスタッフがようやく休息を得たときにはすでに昼を回っていた。昨夜からずっとほぼ徹夜で対応に当たっていたのだ。いやホントお疲れさん。ゆっくり休んでちょうだい。


「皆、分かっていると思うが」


 スタッフが席に座り、あるいは床に座り込んでぐったりしている中、院長は皆を見渡して言った。


「この病の真の名は決して口外せぬよう充分に注意して欲しい。たとえ誰かが本当のことを言ってきたとしても、我々はドゲンナー・モンカ・ワカレヘン病で押し通さねばならない。くれぐれも肝に銘じてくれ」


 スタッフたちは神妙な顔つきでうなずきを返した。この病気の真の名、すなわちゴブリン病という名前が今のケテルにとってどのような意味を持つのかを、皆は正しく理解しているようだった。この名が人々に伝わればパニックを引き起こしかねない。そしてそうなってしまえば、ゴブリンとの和解という歴史的出来事が幻と消えてしまうのだ。


「……患者の増加が止まったのはなぜなのでしょう」


 セシリアが他のスタッフに聞こえぬようトラックに囁いた。


「これがクリフォトの工作なら、もっと大規模にしてもおかしくはないのに」


 確かに、人為的にカビをばらまいたのだとしたら、もっと患者がどんどん増えてもおかしくはない気がする。最終的な患者の数は数十人程度で、まあ施療院で治療可能なギリギリの数だったわけだが、処理できる数の範囲内で収まったのは解せない。世情不安を煽るなら一気に大規模感染を引き起こしたほうが効果的だろうに。自分で言っててすげぇ嫌な考えだけどな。


――プァン


 トラックがセシリアに抑えた音のクラクションを返した。セシリアの表情が曇る。


「……実験、だとしたら、これからが本番、ということでしょうか」


 セシリアが施療院のスタッフたちに目を向ける。より大規模にカビを散布されたとしたら、その時はもう施療院では対処できない数の患者が押し寄せることになるだろう。治療が間に合わない患者が現れたとき、人々の不安が限界を超え、その矛先を向ける相手を探し始める。ゴブリンという存在は矛先を向ける相手として充分に相応しい。ゴブリンはまだ、人々にとって味方でも仲間でもないのだから。


「……先に動かなければ、待っていては負ける」


 セシリアのつぶやきが予言めいた響きを伴って、やけに鮮明に広がっていった。




 ともあれ、目の前の患者の治療は終わり、セシリアたちはひとまず休むことにしたようだ。今は体力を回復させないと、本当に患者が押し寄せる事態になった時に動けないではしょうがない。院長は「休むのも仕事だ」と言って、皆に交代で休むよう指示した。全員がいっぺんに休むと困るからね。そもそも数は多くないが施療院には入院患者もいるので、それらの世話を休むわけにもいかないし。

 時刻は昼を回ったところで、トラックはいったん評議会館に戻ることにしたようだ。セシリアたちにねぎらいのクラクションを鳴らし、トラックはその場を離れた。バタバタしちゃったけど、すでにゴブリンたちの護衛の交代時間は過ぎている。剣士がいるから大丈夫だとは思うが、トラックも護衛に組み込まれているから、遅れちゃって怒られるかなぁ。マスターの怒りを最小限に抑えるためにも、トラック、早く戻ったほうがいいぞ。


「トラック!」


 案の定、というべきか、評議会館に戻ったトラックを出迎えたのは怒りを隠し切れない様子のマスターだった。


「遅いぞ! 何をしていた!」


 これはずいぶんオカンムリのご様子。腕を組んでトラックをにらむマスターに、若干言い訳がましい感じでトラックはクラクションを返した。マスターの表情が怒りから驚きと戸惑いに変わる。


「どういうことだ? 説明してくれ」


 どうやらトラックは施療院での出来事をマスターに言ったらしい。うむ、見事に怒りの矛先を逸らしたな。トラックから説明を受けたマスターは難しい顔で唸る。


「議長には報告しておく。市中の警戒も強化しねぇとな」


 お前は警備に戻ってくれ、と言い残し、マスターは慌ただしく議長室へと走っていった。取り残されたトラックはハンドルを返し、警備に当たっているはずの剣士を探す。本来夜行性のゴブリンたちは今は睡眠時間で、評議会館のゲストルームで休んでいる。警備はゲストルームの周囲に定点配置されたグループと、評議会館の周囲を巡回するグループに分かれて行われていた。シフト的には剣士は外回り組のはずだけど……


「トラック!」


 あ、いたいた。剣士がトラックの姿を見掛けて駆け寄ってくる。トラックはプァンとクラクションを鳴らした。剣士は心配そうな顔で問う。


「セシリアのほうはどうだった?」


 原因不明の病で患者が続々と運び込まれている、という話を聞いてセシリアは施療院に向かったので、剣士としてはいろいろ心配なのだろう。セシリアは結構無理をしがちな子だからねぇ。目の前に苦しむひとがいて、自分には助ける力がある、ってときに、結構ためらいなく力を使っちゃうよね、自分のリスクを顧みずに。トラックはマスターにしたのと同じような説明のクラクションを鳴らした。剣士の表情が曇る。


「……敵がケテルの市民を標的にした無差別テロを起こそうとしているってんなら、ゴブリンたちだけを守っていてもダメってことか」


 ゴブリンたちを守り切ったとしても、ゴブリンたちがケテルに来たことによって人々に被害が出れば、人々はゴブリンたちを憎むだろう。連帯を断ち切り、不信をあおり、分断を招くのが敵の目的であり、そしてそれはおそらくそう難しいことではない。トラック達はゴブリンも人々も守らなければならない。人々がゴブリンを敵と認識することのないようにしなければならないのだ。


「銃撃の時に敵を逃がしたのは痛かった。あの時もっと粘るべきだった」


 剣士が後悔を顔に浮かべる。トラックは気にするなとでも言うようにクラクションを鳴らした。すまん、とつぶやき、剣士は表情を改める。


「待ちの姿勢じゃジリ貧だ。こっちから動かないと敵のいいようにやられるだけだぜ」


 セシリアもそんな感じのことを言っていたけど、剣士も同意見か。まあ確かに、標的が市民にまで拡大するのであれば、相手の動きを待って迎え撃つというのは悠長に過ぎるかもしれない。一発の銃声とカビの散布、敵が実際に行ったであろうことはこの二つだけだが、それによってトラック達は警戒態勢を維持し続けなければならなくなった。このまま警戒態勢が続けばこちら側の精神が持たない。こちらが疲弊しきったところで一気に敵に攻められたら、その攻撃を防ぎきれるかどうか――かといって、闇雲に敵を探したとしても見つかるとは思えない。敵の捜索に戦力を割けば、警護が手薄になった隙を狙って敵が動くかもしれないのだ。こちらは敵を知らないが敵はこちらを知っている、という圧倒的に不利な状況では、こちらから動く、ということ自体が難しい。


「みんな、集まってくれ!」


 悩みが深まるばかりのトラック達にマスターの声が届いた。周囲の冒険者たちがマスターのいる場所にぞろぞろと集まり、トラック達も慌ててそちらに向かった。マスターはかなり厳しい表情で皆を見渡している。隣にはイーリィもいて、手に何か紙の束のようなものを抱えている。


「……ゴブリンたちがケテルの視察を再開する。各自、割り当てに従って警備に当たってくれ」


 ええー、という驚きの声が冒険者たちから上がった。視察を再開するというのは、もはや狙ってくださいと言わんばかりだ。そんなことをされたら守れるものも守れない、そういう不満が顔に出ている。


「気持ちは分かるが、これは評議会の正式決定で、ゴブリンたちも同意している。俺たちの役目は誰も死なせねぇことだ。この仕事にゃケテルの未来が掛かってる、それを肝に銘じて仕事を頼む」


 イーリィが手に持っていた紙を各自に配り歩いた。冒険者たちの表情は不満そうではあったが、拒否する者は誰もいなかった。おそらくみんな事情を察しているのだろう。評議会とゴブリンたちが揃ってこの無謀な行動に出たのは、ひとえに政治的なパフォーマンスなのだ。いかなる妨害があろうともケテルとゴブリンの友好関係は揺らがない。その確固たる意志と、そしてその意志を貫く能力があるということを、ルゼは内外に示そうとしている。


――プァン


 受け取った紙を確認するなり、トラックは厳しい雰囲気のクラクションを鳴らした。マスターは苦い表情を浮かべる。


「……パフォーマンスに子供を使うってのはよくあることだ。子供がそこにいても問題ないほどに安全だ、ってことだからな」


 どうやら今回の視察では、ガートンやその弟とケテルの子供たちが交流する場面があるらしい。トラックは子供たちを巻き込むことを問題視し、マスターも内心では同じ気持ちなのだろう。だがマスターは自身の想いを押し殺しても果たさねばならない責任を負う立場にいる。


「警備にゃ万全を期さねばならん。ならば子供たちがそこにいたとしても、安全は必ず確保されているはず、とそういう理屈だ。俺たちのやるべきことは変わらねぇよ。誰も死なせねぇ傷付けさせねぇ。それだけだ」


 簡単に言うぜ、と誰かのつぶやきが聞こえる。皆が一様に渋い顔を浮かべた。マスターは無言で頭を下げる。トラックがプァンとクラクションを鳴らすと、ふっと場の雰囲気が軽くなった。皆の表情が苦笑いに変わる。


「そりゃ、できなくはねぇけどさ」

「特級厨師殿はお気楽だよ」


 呆れたような笑い声があちこちから聞こえる。ひとしきり笑いが収まるのを待って、マスターは真剣な眼差しで皆に告げた。


「これはケテルとゴブリンとの関係だけの問題じゃない。俺たちがクリフォトに対抗しうるのか、その試金石でもある。ここでつまずくわけにゃいかねぇんだ。どうか、皆の力を貸してくれ」


 皆の表情が引き締まり、それぞれにうなずきを返す。ここにいるのはギルドの中でもマスターが認めた実力者ばかり。士気も高く、ケテルへの愛着も強い。それぞれに気持ちを前向きに切り替えた様子の彼らの中で、先の失敗を気にしているのだろうか、大剣使いの戦士だけが追い詰められたような表情で一人うつむいていた。




 日が傾き始めたケテルの町を、仰々しい警備に守られながら、ゴブリンたちは歩く。ゴブリンたちの案内役は前回同様ルゼ自らが務め、コメルや先生も帯同していた。名目上は式典で行われるパレードの経路の確認だが、実際には先の襲撃の印象を打ち消すという意味合いが強い。ケテル市民に向けた、ゴブリンとの関係を継続していくという意志表示、政治宣伝ということだ。

 ゴブリン一行の周囲を固めるのはマスターを始めとしたギルドの中心メンバーたちで、その中にはトラックや剣士も含まれている。大剣使いの戦士はその面子からは外され、トラック達のさらに外側を固める第二陣に配置されていた。実力的には中心メンバーの一角を担うはずの戦士だが、やはり一度失敗したのが響いたのだろう。当人の表情も暗い。

 第二陣の外側にはさらにもう一重の、主にBランク以下の冒険者で構成された第三陣が囲み、これ以上はない、という警備体制になっている。そして第三陣の外側にはそれなりの数のやじ馬がゴブリンたちの様子を見ようと集まっていた。警備の事だけを考えればやじ馬は追い払いたいところだが、人々にゴブリンとケテルの友好関係を印象付けようという意図からすれば衆目を集めなければならない。やじ馬を追い払ってはこの視察に意味がなくなってしまう。

 ゴブリン一行の中には、今日はガートンとその弟も含まれている。まだ幼い弟はあまり状況を理解していないようで、もの珍しそうにケテルの街並みを見てはしゃいでいた。ガートンは現状を把握しているのだろう、緊張の面持ちで歩いている。ガートンパパがガートンと手を繋ぎ、ガートンは弟と手を繋いでいた。ガートンの震える手をガートンパパがしっかりと握る。

 表面上は穏やかに、ルゼはゴブリンたちにケテルの歴史や街並みを説明し、ゴブリンたちも明確に驚きや関心を示して、視察は和やかな雰囲気のまま進んでいく。すごい強心臓だな。そういうことができなければ議長とか代表とかは務まらんということなのか。やがて一行は北部街区の門を抜け、ちょっとした公園のような場所に辿り着いた。やじ馬たちも視察団に引っ付いて門をくぐる。門は視察のために解放されており、普段立ち入ることのできない一般市民は北部街区の風景をきょろきょろと見渡していた。


「ようこそケテルへ。私たちは皆さんを歓迎します」


 公園で一行を出迎えたのはアネット率いる青空教室の子供たちだった。その中にはルーグもいて、アネットの隣で緊張気味に直立している。見知った顔を見つけてガートンの表情が和らいだ。アネットは堂々とした様子でゴブリン代表に花束を渡した。


「ごぶごぶ」


 花束を受け取った年かさゴブリンが目を細め、おそらくアネットに礼を言ったのだろう。アネットは少し恥ずかしそうに首を横に振ると、


「ごぶごぶ」


と答えた。年かさゴブリンが目を丸くする。アネットがゴブリン語で答えたことに驚いているようだ。ルゼがすかさずゴブリンたちに言った。


「ガートン君と共に学ぶ教室の子供たちです。ガートン君と接することで自然に言葉を覚えた。頼もしいでしょう? この子たちこそ、ケテルの未来です」


 ルゼの声はゴブリンたちに話しかけるには不自然なほど大きく、公園の外にいるやじ馬たちにも聞こえるほどだった。やじ馬たちから感心したような声が漏れる。すでに時代は動いているのだと、ルゼは人々にそう伝えたのだ。年かさゴブリンは膝立ちになってアネットと視線の高さを合わせると、花束を左手に持ち、右手でアネットの手を取った。


「ごぶごぶ」


 優しい口調の年かさゴブリンにアネットは力強くうなずく。


「はい。私たちはこれからもずっとガートン君の友であり、そしてまだ見ぬ多くのゴブリンの子供たちの友でありたいと思っています」


 すぐに先生がアネットの言葉を通訳し、年かさゴブリンは感動したように何度もうなずいた。アネットは微笑み、年かさゴブリンの手を確かな意志を持って握り返す。それは、何だろう、新しい時代が来るのだという実感のようなものを人々に与える光景だった。ケテルの未来はゴブリンと手を携えた先にあるのだと、今、十歳の美少女がここにいる全員に示したのだ。人々から我知らず感嘆の息が漏れた。それは明るい運命を予感したものでもあり、アネットがそれを示したという事実そのものへの感嘆でもあっただろう。


 アネゴ、次の選挙で総裁の座でも狙ってますか? もう溢れ出る重鎮感が留まるところを知りませんけど。


 挨拶が終わり、ちょっと退屈していたガートン弟が「遊んでいいよ」と許可を受けて駆け出した。青空教室の子供たちが「ごぶごぶ」と声を掛け、弟君は嬉しそうに子供たちの輪に入っていく。ガートンがホッとしたようにアネットに駆け寄り、小さく礼を言った。


「お礼なんて言わないで。素直な気持ちを言っただけよ」


 アネットがもう百点満点の回答を返す。そして弟君と遊ぶ級友たちに目を移し、真剣な眼差しで言った。


「先生が言っていたでしょう? 私たちが未来を決めるんだって。だから私たちは決めたの。あなたたちと共に歩むと」


 ルーグとガートンもアネットの視線の先にあるものを共に見つめる。弟君は楽しそうに笑っていた。弟君が楽しそうな様子を見ている級友たちは嬉しそうだった。それこそが、アネットたちが決めた『未来』なのだ。

 ルゼたちも、ゴブリンたちも、無言で子供たちの様子を見つめる。というよりも、見入っている、というべきだろうか。目の前に広がる奇跡のような光景に可能性を見出し、目を離すことができずにいる。そして――


 そんな未来など許さぬと言うように、和やかな空気を残酷に引き裂いて、夕暮れを間近に控えた公園に場違いな銃声が響き渡る。

次期ケテル議長はおそらくアネットになるだろうと、人々の間ではもっぱらの噂です。

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― 新着の感想 ―
[一言] これは議長の器ですわ( ˘ω˘ )
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