おはよう
ケテルの町は闇に沈み、星の少ない夜は行く先を示してくれない。灯りもない中央広場に飛び出し、剣士は焦った様子で周囲を見渡した。すでにボスが連れ去られてから三十分が経過している。もうこの辺りにいるはずもないが、どこに向かったのかはまるで見当がつかない。
「くそっ!」
虚空に向かって悪態をつき、剣士は地面を蹴る。中央広場は文字通りケテルの中心。東西南北どの方向にも道が繋がっている。ボスを抱えて歩いているとしても、三十分あれば一キロ以上は移動しているはずだ。すでに広場周辺に人通りはなく、目撃証言を辿ることもできない。
空には大きく欠けた月が禍々しく赤い光を放つ。敵は真昼間から襲撃を実行するような相手、つまり人目に付くことを避けてはいない。ということは、ギルドから連れ出した理由は冒険者との交戦を避けたのであってボスの殺害の発覚を恐れたからではない。だとすると敵が正体を現して牙を剥くのは、ギルドから充分に離れ、Aランカーたちに感づかれない場所まで移動したときだ。わざわざ隠れ家などの拠点に戻る必要はない。襲う場所は路上でいいのだ。
「探査系のスキルを覚えとくんだったぜ」
苦々しくつぶやき、剣士は集中を始める。闇の中に血のように赤い瞳が浮かび上がった。スキルウィンドウが淡く輝きを放ち、スキルの発動を告げる。
『アクティブスキル(レア)【鋭敏】
五感を研ぎ澄ませ、通常では感知できない気配を感じ取る。
まったく無関係な感覚刺激も無差別に拾うことになるため、
洪水のように押し寄せる情報に溺れない強い精神力がなければ
気を失うこともある諸刃の剣』
剣士の顔が苦しげにゆがむ。スキルウィンドウの説明を信じるなら、剣士は今、ケテルから発せられている膨大な情報を感知しているのだろう。つまり、誰かの談笑や靴音、吐息、心音、そんな通常では意識に上らない、脳が自動的にシャットアウトしているようなささいな情報を全て知覚しているのだ。それらの中から関係のありそうな情報だけを取り出し吟味するという気の遠くなる作業を、剣士は行っている。
剣士が頭痛に耐えるように手を額に当てた。目をすがめ、膨大な情報から必死に意味を取り出そうとしている。堅く目を閉じ、口を引き結ぶ。視覚を遮断し、聴覚に的を絞ったのだろう。
やがて剣士はハッと何かに気付いたように顔を上げ、南東の方角を向いた。南東の方角、つまり南東街区へと続く道は、他の街区への道と比べてもっとも灯りが少なく、明日への見通しを阻むように闇が濃くわだかまっている。耳を澄ませるとかすかに獣の吠え声が聞こえた。
「……一か八か、だ」
大きく息を吐き、闇の向こうを見据えると、淡く発動光の名残を振り切って剣士は獣の吠え声に向けて強く地面を蹴った。
ムッとする臭気が鼻を突く。血の匂い――それも、かなりの量のものだ。苦しげなうめき声があちこちから聞こえる。そして、乱れた呼吸の音、複数の足音、風を切る音、鈍い打撃音。
細く心細い赤月の光が戦いの場を照らす。そこは区画の境にあるちょっとした広場で、中心に投げ出された担架で眠るボスの姿、それを遠巻きに囲む十人を超える刺客たち。そして、ボスを守って戦う看護師の女性――
刺客たちが動き、看護師の女性に襲い掛かる。闇夜に刃が鈍く閃く。刺客の一人が一気に距離を詰め、正面から看護師の女性の喉を切り裂かんと迫った!
「ふぉあちゃぁーーーっ!!」
気合と共に発せられたハイキックが側頭部に突き刺さり、刺客は声もなくその場に崩れ落ちる。他の刺客たちが慌てて距離を取った。ふぉぉーと息を吐き、弾むようにリズムを取りながら、看護師の女性は手招きをして刺客を挑発する。
「惜しむ命のない奴からかかってこい」
つ、つえぇーーー! この世界の看護師ってこうなの!? 強くなければ誰も救えないんだよ的な? 俺の患者に指一本触れてみろ、地獄の釜にケツからぶち込んでやるぜ的な? 無頼のトラベルナースが悪漢どもをなぎ倒すハートウォーミングカンフーアクション巨編堂々開幕?
「ドラゴンロードステーキサンドを食べた私には、貴様らごときを退けるなど造作もない」
ドラゴンロードステーキサンドの効果だったーーーっ!! 全てパラメータが+10された結果だったーーーっ!! そういえば前回の襲撃の時にはこの看護師の女性は戦ったりしてなかったもんね。すげぇなドラゴンロードステーキサンド。ごく普通の看護師でもこれを食べるだけで刺客を撃退できるほどの力を得るということか。パラメータ+10ってそこまで影響が出るもんなんだ。そもそもパラメータってAだのBだのアルファベット表記だったり、果物で表示されたり、ステータスウィンドウの匙加減で表示が変わるから急に数字で示されてもスケールがよく分からないんだよね。
『果物の糖度が+10だと考えると、その影響度が実感できるのでは?』
出たな呼んでもいないのにヘルプウィンドウ。でも、そうか。確かに、糖度10から20になったとしたら、酸っぱいイチゴが急にメロンより甘くなったようなもんだもんね。次元が違うレベルになったということか。なるほど。
『まあ、果物の美味しさは糖度だけでは測れませんけどね』
人が納得してることを否定してくるんじゃないよ。すっきりした気分が台無しだよ。
『世の中には数字に表れない強さなんていくらでもありますから』
ステータス制を採用しているこの世界観を全否定かよ。ステータスの最大の利点は能力を数値化することで強さの大小関係を分かり易く提示することだろうが。
『表面的な数字に踊らされるボウヤにはちょっと早かったかしら?』
口が過ぎるぞヘルプウィンドウ。世の中にポイント還元という言葉に踊らされて無駄な買い物を繰り返す人間のなんと多いことか。
『おっと、出過ぎたことを申しました。忘れてください、冗談だから。それじゃ、今日はこのへんで失礼します、ヘルプウィンドウでした。シーユー』
相変わらずやりたい放題だなヘルプウィンドウ。しかし当初と違って俺との会話を当然のようにしている。それが意図的なものかは分からないが、そのうちじっくりと問い詰めてくれよう。そもそも俺がどういう存在なのか、俺が痔であることがどうして重要視されているのか、聞きたいことは山ほどあるのだ。
「ヘルワーズ!」
駆けつけた剣士が剣を抜き、刺客の一人に斬りかかる。新手の姿に軽く舌打ちをして、三人の刺客が剣士を迎え撃った。長剣の打ち合う音が響く。他の刺客たちはボスを囲んだまま、襲い掛かるタイミングを測っている、というより、襲い掛かりあぐねている。それは看護師の女性の思わぬ活躍とは別に――
――グォァォォーーーーーッッ!!
ボスを背に庇い咆哮を上げる獣の如き男の存在に気圧されているからだろう。髪は逆立ち、呼吸は荒く、収縮した瞳孔に赤月の狂気を宿して、ヘルワーズは立っていた。彼の周囲には五、六人の刺客が大ケガをして転がっている。口元から覗く牙、伸びて鋭く尖った爪は血に塗れていた。
狼憑き
かつてトラックと戦った時に使った、自らを狂戦士に変える秘薬を今回もヘルワーズは使ったのだ。ボスを守るために、効果が切れたら動けなくなるほどの副作用を持った、呪いのような薬を。
理性を失った目をしながらヘルワーズはボスの傍を離れず、近付いた者を攻撃しているらしい。ボスを守る、それはもはや彼の本能のようなものなのだろう。おかげで地面に転がる刺客たちはとどめを刺されずに済んでいるのだが、爪の届く範囲に近付いたら最後すさまじい速度で迎撃されるため、刺客もうかつに動けないらしい。ヘルワーズの身体には幾つもの矢が突き刺さっている。痛みを感じない今のヘルワーズは刺客の放った矢を避けようともしない。
「化け物め!」
忌々しげに吐き捨て、刺客のリーダー格の男――ギルドで調査部を名乗った印象のひどく薄い男――が懐から青白く光る玉を取り出す。法玉、って、こんなところで使ったら、ボスたちどころか地面に転がっている刺客たちも吹っ飛ぶぞ!? 何考えてんだ!
リーダーは躊躇なく法玉をヘルワーズに向けて投げつけた。ええい、仲間を巻き込んでも構わないってか! ヘルワーズは法玉を……手で受け止め、胸の前で合唱するような仕草で叩き潰した!? んな無茶な! 法玉が爆発し、ヘルワーズを中心に爆風が広がる。砂埃が舞い視界を隠して、刺客たちは腕で顔を覆った。剣士もまた身を低くして爆風に耐える。視界が晴れ――
――グォァォォーーーーーッッ!!
獣の咆哮が響く。胸が大きく抉れた上半身を自らの血で染めて、ヘルワーズは刺客たちをにらみつけていた。法玉の爆発を全て身体で受け止めたのだろう、ボスには傷の一つさえない。刺客のリーダーが小さく悲鳴を上げる。理屈ではない本能的な恐怖が刺客たちを侵食していく。青ざめた顔のリーダーは震える手で懐から新たな法玉を取り出し、地面に叩きつける。刺客たちの身体が青い光に包まれた。これは、転移魔法の光? 気付いた剣士が「待て!」と手を伸ばすもわずかに遅く、刺客たちは姿を消した。
「たす、かった……?」
看護師の女性が、腰が抜けたように地面に座り込む。ボスは何も知らないというように静かに眠っていた。小さく息を吐き、剣士は剣を鞘に納める。ボスを守ることができた、とはいえ刺客には逃げられてしまった。刺客を待ち伏せて捕らえ、背後関係を調べるという目論見は失敗したのだ。
「おい、ヘルワーズ。だいじょうぶ――」
剣士がヘルワーズに近付き、声を掛けて、言葉を止める。ざわりとした嫌なものが背筋を伝った。ヘルワーズの目が剣士を捉える。その口から血が溢れ、狂気を湛えた殺意が質量を伴って空気をゆがませる。
――グォァォォーーーーーッッ!!
地面を蹴り、牙を剥きだしにしてヘルワーズは剣士に襲い掛かった! も、もしかして敵味方の区別がついてない!? ちょっと待って落ち着いて! 敵はいなくなったんだよ! もう戦わなくていいんだよ!!
とっさに剣を抜き、剣士はヘルワーズの爪を辛うじて防いだ。しかし整わない体勢で受けた攻撃の衝撃を受け止めきれず、後ろに吹き飛ばされて仰向けに倒れる。ヘルワーズは素早く追撃し、倒れた剣士の腹を踏み抜くべく足を上げた。倒れたまま横に転がり、剣士はなんとか攻撃をかわす。一瞬前まで剣士がいた地面をヘルワーズの足が抉る。
「目を覚ませ! もう終わってんだ!!」
立ち上がり、剣士は剣の切っ先を下げて叫んだ。しかしヘルワーズは充血した目で剣士をにらみつける。狼憑きの狂気に呑まれ、理性が完全に吹き飛んでいるのだ。薬の効果が切れるまでヘルワーズは戦いを止めない。あるいは、その命が尽きるまで。
ヘルワーズが再び吠え、剣士にその太い腕を振るう。剣士は後ろに飛びずさってそれをかわした。間髪を入れずヘルワーズは距離を詰める。剣士が牽制のために突き出した刃がヘルワーズの肩に刺さった。避けられる前提の攻撃、傷付けるつもりのなかった攻撃の手ごたえに剣士がわずかの間動揺する。肩の傷など一切構わず、ヘルワーズは渾身の拳を剣士に見舞った。剣士の身体が宙を舞い、民家の石塀に突っ込む。石塀はガラガラと崩れ、剣士はガレキの中に埋もれた。
「……ってぇ」
呻きを上げ、剣士が半身を起こす。どこか痛めたのかその顔が引きつった。立ち上がらない剣士に興味を失ったのか、ヘルワーズは周囲を見渡す。そして、気付いたようだった。今、この場にいる『敵』、自分とボス以外の存在に。
「ひっ」
ヘルワーズと目が合い、看護師の女性が息を飲む。地面に座り込んだまま震えている。動けないのだ。激しい憎悪と殺意に晒され、抵抗する気力さえ奪われている。ヘルワーズがゆっくりと看護師の女性に近付く。
「おい、よせ!」
剣士が焦りと共に叫ぶ。ヘルワーズは答えない。剣士が痛みに耐えながら立ち上がる。ヘルワーズが看護師の女性の前に立った。看護師の女性が呆然とヘルワーズを見上げる。
「……ば、っかやろう!」
剣士が剣を収め、居合の構えを取る。その目が妖しい紅に輝く。ヘルワーズが右腕を振り上げる。剣士の身体がわずかに沈み込んだ。ヘルワーズが吠え、剣士が強く地面を蹴り――
「どう、したの? 何を、怒ってるの?」
少しかすれた、寝起きのような、幼い声が聞こえる。ヘルワーズの動きが止まった。
「ぼく、だいじょうぶだよ。いじめられてないよ。ヘルワーズが、おこる必要、ないよ」
斬りかかろうとしていた身体を強引に抑え込み、剣士が数歩たたらを踏んだ。ヘルワーズがぎこちなくボスに身体を向ける。ボスはヘルワーズに手を伸ばした。
「見て。ほら、だいじょうぶ」
記憶が混濁しているのだろうか、ボスの口調は妙に幼い。ヘルワーズはボスに近付き、膝をついて、ボスの手を取った。だいじょうぶ、とあやすようにボスは何度も繰り返す。逆立った髪が下がり、はちきれそうに膨らんだ筋肉がしぼみ、その目に理性が、感情が戻っていく。ヘルワーズは宝を抱くように、ボスの手を胸に抱いた。
「……おはよう、ヘルワーズ」
優しく穏やかな声音に、ヘルワーズの両の目から涙がこぼれる。押し殺した嗚咽が細い月に照らされ、広がった。ホッとしたように大きく息を吐き、剣士はその場に腰を下ろした。
眠れる森のボス、ようやくのお目覚め。




