商人
しばらく泣き続けたルーグはやがて泣き止み、気恥ずかしそうに自分で涙を拭って、そして再び眠りについた。眠るルーグの顔はどこかホッとしたような、少し重荷を下ろすことができたような、穏やかな表情になっている。イヌカは不似合いなほどに優しい目でルーグの寝顔を見つめた。
「……私に、何か手伝いをさせてもらえないだろうか」
ボロボロになりながらミラを守ったルーグの姿に思うところがあったのか、セテスが神妙な顔でセシリアとジンに言った。二人は驚いたように目を見開く。
「それは願ってもない申し出ですが……よろしいのですか?」
さっきセテスが言っていたように、ゴーレムとなったミラはその片割れである『魂の樹』がゆがみ、もはやハイエルフとは認められずに『ケガレモノ』と呼ばれる存在だ。それに関わればセテス自身のハイエルフ内での立場にも影響するのではないか。セシリアはそれを心配しているようだ。セテスは首を横に振り、覚悟を決めたようにまっすぐにセシリアを見据えた。
「こんな年端もいかぬ少年がミラ様を守るために身を危険に晒し、あなた方もまたミラ様のために力を尽くしておられる。にもかかわらず我らハイエルフ自身がミラ様のために指の一本も動かさぬなど許されることではない。我らはかつてミラ様を『宝』と呼んだのだ。その言葉を偽りとせぬために、私は私の持つ力の全てを差し出そう」
そしてセテスはセシリアとジンに深く頭を下げる。
「ゴーレムについては門外漢だが、魔法やハイエルフについてであれば必ず役に立つ。私を使い、どうか、ミラ様を救ってくれ!」
二人、特にジンは、誇り高いハイエルフが、しかもドワーフ相手に頭を下げたことにすごく驚いたようだ。二人は互いに目を丸くして顔を合わせると、笑顔になってセテスの手を取った。
「よろしくお願いします、セテスさん」
「正直なところ、僕たちだけでは手詰まりだと思っていたんです」
セテスが顔を上げ、三人はうなずきあった。ジンの顔が喜びに沸く。ジンにとってセテスという協力者を得たことは、百年前の魔法使いたちと比べて初めて得たアドバンテージだった。熟練のゴーレム技師の協力を得て一年以上の時間を費やしても成功しなかった百年前を踏み越えるには、百年前にはなかった要素が必要なのだ。
「まずは現状と課題を教えてくれ。面倒を掛けるが、よろしく頼む」
「はいっ!」
そしてジンは魔法使いが遺した手記を広げ、まずはセテスにゴーレムのことを説明し始めた。
ジンたちが熱心に話し合いをしている横で、イヌカとトラックは何となく取り残されたように突っ立っていた。ルーグは当分目を覚ましそうにない。イヌカはしばらくジンたちの様子を見ていたが、やがてトラックに向かって言った。
「ルーグはオレが見とく。お前らはもう帰っていいんじゃないか? 当分終わらねぇぞ、こりゃ」
いつの間にか窓からは朱色の光が射し込み、日暮れが近いことを告げている。もうそんな時間か。トラックがプォンとクラクションを鳴らした。ルーグの側についていたミラが顔を上げる。イヌカは少しばつの悪そうな顔でミラを見ると、思い切ったように頭を下げた。
「さっきはキツい言い方をして悪かった。あれは、八つ当たりだった」
ミラは無表情に首を横に振る。ピンと来ていないのか理解した上でなのかよく分からないな。イヌカは顔を上げ、判断に困った様子で「うーむ」とうなった。
トラックがもう一度クラクションを鳴らす。ミラは立ち上がり、パタパタと駆けてトラックの助手席側に並ぶ。イヌカが「ご苦労さん」と軽く手を挙げた。トラックはジンたちにクラクションを鳴らすと、ミラを伴って施療院を後にした。もっとも、話し合いに集中しているジンたち三人はトラック達が帰ったことにも気付かずにいるようだった。
夕暮れの西部街区を、トラックとミラは並んでゆっくりと、冒険者ギルドに向かって歩いている。お、今日は歩きなのね。何となく歩きたい気分なんだろうか。
昼間には少し和らいでいた寒さが徐々に鋭さを増し、まだ春ではないと警告する。幾人かの大人がコートの胸元を握って足早にすれ違い、子供たちが騒ぎながら走っていった。ミラは視線を落とし、トボトボと歩いている。なんか元気がないように見えるのは気のせいだろうか。落ち込んで、いる? 見かねたようにトラックは優しいクラクションを鳴らした。ミラは顔を上げ、トラックを見て――口を開きかけ、何も言わずに口を閉ざした。再びその目が地面を見つめる。夕日が作る長い影が西部街区の道に伸びていた。
トラックはミラの歩く速さに合わせてゆっくりゆっくり道を進む。ミラは途中、何度もトラックを見上げ、何かを言おうとしては口を閉ざした。トラックは辛抱強く、ミラが自分から伝えてくれることを待っているようだった。二人は無言で歩みを進める。やがて日が沈み、澄んだ冷たさを引き連れて空が藍色に染まった。白く強い光を放つ星が、ちらほらと空に姿を現す。そして二人は、冒険者ギルドの建物の入り口に辿り着いた。
――プァン
トラックが穏やかなクラクションを鳴らす。ミラはトラックを見上げた。
――プァン
静かに、優しく、染み入るようにクラクションの音が広がる。ミラの目が、迷い、戸惑い、揺らめく光を宿した。トラックはミラの言葉を待つ。空に昇った三日月の頼りない光がミラの横顔を照らした。どれほどの時間が経っただろう、ミラはゆっくりと口を開いた。
「……たす、けて」
――プァン!!
待っていた、とばかりにトラックは力強いクラクションを返した。ミラが驚きに目を丸くする。トラックは扉を開けると、【念動力】でミラを助手席に乗せ、勢いよくアクセルを踏んだ。ギャリギャリと石畳を削り、トラックは加速して北へと向かった。
「お、お待ちください! 困ります!」
本当に困り顔の使用人を振り切り、トラックはバーラハ商会の本部事務所の廊下を進む。壁や扉を破壊して突撃しなくなっただけ大人になった、と言えるかもしれないが、今日は久々にずいぶん強引な様子だ。っていうか、トラック何でここに来たの? さっきミラが言った「たすけて」って何のこと?
やがてトラックの前に、硬く分厚い木製の扉が姿を現した。よく磨かれた黒色のその扉はまるで金属のような光沢を持ち、廊下の灯りを反射している。下品にならない程度にさりげなく彫りこまれた精緻な幾何学紋が部屋の主の地位を知らしめる。トラックは【念動力】で扉をノックする、と同時に、部屋の主からの返答を待たずに扉を開けて部屋へと踏み込んだ。使用人が泣きそうな声で「ああっ」と叫ぶ。
「おや、トラックさん。どうしました、こんな時間に?」
執務机で書類を呼んでいた部屋の主は、突然乱入してきたトラックに動揺するでもなく、顔を上げてトラックを見た。そこにいたのはバーラハ商会の大番頭、をアルバイトでしている、コメルだった。トラックは無遠慮にコメルの前に進み出る。コメルは「申し訳ありません!」と頭を下げる使用人に柔和な笑みで退出を促す。うん、君は何も悪くないよ使用人さん。トラックのせいで変な叱責を受けずに済んでよかった。
――プァン!
なんだか前のめりな感じにトラックはクラクションを鳴らす。コメルはピンとこない感じで少し首を傾げた。
「……リスギツネ、ですか?」
……あ、そうか。なるほど。リスギツネか。
「話が良く見えないのですが、もう少し詳しく説明していただけますか?」
コメルの言葉を受けて、トラックは急くようなクラクションで説明を始めた。
「なるほど。事情は分かりました」
ふむ、と腕を組み、頭の中で何かの算段をするように視線を落として、コメルはそうトラックに言った。トラックは机のギリギリまでコメルに近付きプァンとクラクションを鳴らす。コメルは真剣な表情でトラックをまっすぐに見つめた。
「残念ながら、今のケテルにリスギツネに関する商取引のルールはありません。ですから、リスギツネを捕まえることも売ることも、あるいは毛皮にしたとしても――」
――プァン!
コメルの言葉をトラックの怒りが遮る。コメルは動じる様子もなく、トラックが少し落ち着く時間だけ沈黙した後、再び口を開いた。
「たとえば、の話です。今のケテルには、リスギツネをどう扱おうとそれを罰するための規制がありません。だから厳密には、トラックさんの言う『リスギツネ密猟者』は密猟者ではありませんし、リスギツネを捕まえて売ろうとしていることを以て捕縛することも、リスギツネを取り戻すこともできません。無理やりそれをすれば、むしろこちらが罪に問われかねない」
コメルの静かな言葉に、今度はトラックが沈黙する。ミラが助手席でもぞもぞと動き、扉を開けて外に出た。コメルがミラの姿を認め、軽く目を見開く。ミラは机のすぐそばまでパタパタと近づき、コメルを見上げた。
「あなたは……そう、ですか」
コメルの表情が痛ましげな色を帯びる。ミラの事情は耳に入っているのだろう。トラックがうめくようにプォンとクラクションを鳴らす。コメルはふたりを安心させるように柔らかく笑った。
「大丈夫。密猟の罪を問うて彼らを捕まえることはできませんが、やりようはね、いくらでもあるんですよ」
コメルは机に置いてあった小さなベルを鳴らした。ちりん、と澄んだ音が鳴り、廊下から足音が近づく。扉を開けて入ってきたのはさっきトラックを止められなくて半泣きになっていた使用人だった。コメルは使用人にごにょごにょと耳打ちをする。使用人はうなずき、トラック達に軽く会釈をすると、一言も発することなく退出した。トラックがプァンと疑問を伝える。コメルは笑顔のままで答えた。
「規制がない、ということはね、トラックさん。純粋なパワーゲームだということなんです。そしてパワーゲームなら、我がバーラハ商会が負けることは絶対にない」
コメルの瞳に獲物を狙う肉食獣の光がかすめる。その口元は人の好さそうな普段の顔とは違う、ある種の残酷さを湛えた笑みを形作った。
「日の出の頃にはリスギツネをお手許にお返しすると約束しましょう。部屋を用意させますので、今日はどうか安心してお休みください」
再び普段の柔和な顔に戻り、コメルはミラとトラックに微笑みかけた。ミラは無表情にじっとコメルを見つめ、トラックはやや気圧されたようにプァンとクラクションを返した。
「ああ……」
放心した様子で一人の中年男が立ち尽くしている。彼の目の前には続々と大量の荷物が運び込まれていた。その荷物は古着、日用雑器、塩、油――昨日取引先に納品したはずの商品だった。つまりこれらはすべて、返品された商品ということだ。積み上がっていく木箱を為す術なく男は見つめる。どうしてこうなったのか、まるで分らないという顔で。
「失礼しますよ」
荷物を運ぶ者たちの間を割って男の前に姿を現したのは、柔和な表情を浮かべた小太りの商人――コメルだった。コメルの後ろにはトラックとミラもいる。コメルの服に刺繍されたバーラハ商会の印章に気付いたのか、男がわずかに目を見開いた。
「早速で申し訳ないが、商売の話をしましょうか」
コメルの笑顔の奥には有無を言わさぬ迫力がある。男はゴクリと唾を飲んだ。
トラック達がコメルを訪ねた翌日、まだ日が昇る前の、うっすらと空が白み始めた時間に、コメルはトラック達のいる客間を訪ねた。トラックはミラをベッドに寝かせ、自分はその横に車体を小さくして停車していた。トラックがコメルを迎えると、ミラはもぞもぞとベッドから出てきた。眠れなかったのか、そもそも眠る必要が無いのか分からないが、ミラはすでに目を覚ましていたようだ。
「リスギツネを売ろうとしていた商人を特定しました。これから会いに行きますが、一緒に来ますか?」
トラックが返事をするより早く、ミラがコメルにうなずきを返す。「では、行きましょう」と答え、コメルは身を翻した。
「こちらの返品された商品はすべて我々が買い取りましょう。値段はあなたが取引先との契約で設定した値段と同額。いかがでしょう?」
柔和な笑顔のコメルの目は笑っておらず、むしろ相手にナイフを突きつけるような鋭さがある。出された好条件とそのコメルの態度のギャップに、男はかすれた声で言った。
「ど、どうして……?」
コメルは表情を変えないまま、世間話でもするように答える。
「それは、あなたの取引先に圧力をかけて商品をすべて返品させたのは我々だからです」
「なんだと!?」
男の顔が色めき立った。しかしコメルの視線に射すくめられ、すぐに目を泳がせる。コメルは穏やかに言った。
「落ち着いて。あなたの怒りに意味はない。意味があるのは、我々はあなたを潰すことができるということと、我々にあなたを潰す意思がないということです」
男が戸惑いの表情を浮かべる。それはそうだろう、潰せるが潰す意思はない、と言われてもどういうことなのかさっぱりわからない。
「な、何が、目的だ?」
男の声が恐怖に震える。何を考えているのか分からない相手と、しかも圧倒的に力の差がある相手と対峙するには、男の心臓は強度が足らないのだろう。コメルは張り付いた笑顔のまま、男を呪縛するように見つめた。
「条件は二つ。一つは我々バーラハ商会の傘下に入ること。雇用はすべて維持するので安心してください。我々の後ろ盾を得ることは、あなたにとっても悪い話ではないでしょう?」
「も、もうひとつは?」
男が問い返し、のどがカラカラに乾いているのだろう、苦しそうに数回咳き込んだ。コメルは「大丈夫ですか?」と白々しく心配する振りをして、そして二つ目の条件を口にした。
「リスギツネを引き渡してください。小動物一匹渡すだけだ。簡単でしょう?」
コメルの付きつけた条件に男はハッと息を飲んだ。コメルに感じていたものとは明らかに別の、命の危険を感じているような強い恐怖がその顔に浮かぶ。コメルはわずかに眉をひそめた。
「リスギツネは、勘弁してもらえないか。ほ、他の商品はすべて、差し上げてもいい」
男がはっきりと分かるほどに震えだす。明らかに怯えている。コメルの目が鋭さを増した。
「リスギツネの売り渡し先はどこだ?」
男がうつむき、震えを抑えるように自らの腕を抱いた。コメルが一歩詰め寄る。
「言えっ!」
切りつけるようなコメルの恫喝に男の身体がビクッと跳ねる。男は目を固く閉じ、身を縮めて頭を抱えながら叫んだ。
「ト、トランジ商会!」
コメルは一瞬だけ目を見張り、そしてすぐに苦々しい表情に変わった。イーリィの見合いの件からずっとコメルはトランジ商会を追っているが、めぼしい手掛かりは未だ掴めていないようだ。思わぬ場所から出てきたその名前に、コメルは思わず反応してしまったのだろう。
「何も怖れる必要はありません。バーラハ商会はあなたとあなたの関係者の全てを守るとお約束しましょう。無論、あなたが条件を飲むなら、ですが」
コメルはすぐに笑顔に戻り、安心させるように手を広げた。男が顔を上げ、不安と期待の入り混じった視線をコメルに向ける。
「……本当か?」
「もちろん」
やや大仰なほどのうなずきを、間髪入れずにコメルは返した。男は脱力したように膝をつく。その顔にはようやく恐怖から解放された安堵が浮かんでいた。
「……トランジ商会は怖ろしい。殺すことを何とも思っていない。私たちを守ってくれ。どうか、どうか――」
コメルが男に近付き、手を差し出した。男はゆっくりとその手を取る。
「契約成立、ですね」
コメルのその言葉に、男は深く頭を下げた。
奥に隠れてコソコソと様子を窺っていた、商人の仲間――ちょっとガラの悪い若い男たちのなかの一人が、カゴに入れたリスギツネを持ってきてコメルに渡す。「確かに」とうなずき、コメルはカゴを受け取った。カゴの中のリスギツネがクルルと鳴く。見たところ特にケガしている様子もなさそうだ。よかった。
コメルがカゴを開けると、リスギツネは勢いよく飛び出し、ぽーんと地面を蹴ってミラの頭の上に着地した。ミラは頭上のリスギツネをそっと両手で掴むと、優しく胸に抱えなおした。トラックがプァンとクラクションを鳴らす。ミラは顔を上げてトラックを見ると、リスギツネに頬を寄せた。リスギツネがミラの頬を舐める。朝の太陽がようやくその姿を空に現し、射し込む光がトラック達を照らす。
ミラが、少しだけ、笑った。
……コメル、怖っ!




