06 優しい魔法の使い方 ⑥
「おいでなさい。その分だと、匂いを支配する術は習っていないのでしょう」
「はい、難しいって聞いてます」
「それは、空間全体の匂いを操る事を指してでしょう。自分一人程度であれば、術句を唱えずとも魔力に乗せて散らすだけで十分に可能です。身だしなみも、君が毎晩やっているように頭から冷水をかぶらずとも、風の力を借りれば済む事……手を」
スッと手を差し出され、躊躇わずにそっと手を重ねる。言葉を必要としない、フィニアス師いわく『原始的な魔法』の時には、こうして直接手で触れて感覚を覚えさせてくれるのが師の教え方だった。
冷たそうな外見に反して暖かい手は、血の通わないライの手や、いつも冷たいエルの手に慣れていると少しドキリとさせられる。いつでも几帳面に整えられている、長く美しい指。ライみたいな剣ダコもないし、年齢も分からないし傷一つない手なのに、こうして握ると得体の知れない圧のようなものを感じる。
触れ合う指先から流れ込む魔力は、いっそ息が詰まるくらいに混じり気のない透明さがあって、人というよりも自然そのものみたいだと思う。いつでも素っ気なさと優しさが裏表にあって、踏み込み方を間違えれば牙を剥く、獣とか森とか……そういう感じの魔力。
「あっ……今の」
魔力が巡り、肌の上で少しだけ泡のように弾けて、柔らかな風が流し去って行く。全身に籠もっていた熱や匂い、ありとあらゆる情報が森の空気に溶け、少しずつ同化していく。いつもは強引に洗い流していた土埃が優しく拭い去られ、バサバサとしていた髪がしっとりと水気を含んで、するりと肩を滑り落ちる感覚がした。
「……覚えましたね」
「はい!」
私の返事に、フィニアス師は優しく微笑んでゆるりと手を解くと、静かに私の髪に触れた。
「マスター?」
「じっとしてなさい。それから、一度で覚えなさい」
低く告げられ、思わずそのままピシリと固まる。フィニアス師の指が魔法のように動いて、するすると私の白い髪を編み上げていくのが分かった。それは、エルが私の髪を櫛で梳いてくれた時とは全然違って、何か懐かしくて大切なものを優しく辿っているような手だと感じたのは、きっと気のせいじゃなくて。
「はい、よろしいですよ」
「これ、は……」
折角編んでもらったものを、崩さないようにそっと触れると、髪ではない感触と共にフワリとみずみずしく甘い香りが広がった。
(これは……花片?)
フィニアス師を見上げれば、アイスブルーの瞳に映る私は目を見開いて、師の瞳よりもずっと青く可憐な花に触れ立ち尽くしていた。
「涙鈴蘭の花ですよ。思った通り、君の髪に良く映えますね……どうか、しましたか」
師に問われるまで、どうしたのか自分でも分からなかった。ただ、頭の中をとりとめのない感覚が、浮かんでは消えていく。
優しく髪に触れた手。月明かりと華やかな祭灯。二人きりの世界。失われた温もり。
あの日の青いカンパニュラとは、全然違うはずなのに……胸の奥から、何かがあふれて止まらない。これが、単なる痛みや悲しみだとは、思いたくなかった。それでも、命を燃やし尽くしてしまったように、枯れ果てたカンパニュラの姿を想い、どうしようもなく……きっと、寂しかった。
「……何故、泣くのです」
「ごめん、なさい……嬉しくて」
嬉しいのは、嘘じゃなかった。ただ、真実でもないのだということは、私を幼い頃から知っているフィニアス師の前に、隠し通せるはずもなくて。
「全く……嬉しいだけで、こんなにも泣く人間がどこにいるのです。ご存知とは思いますが、私はいつまでもメソメソとしている輩が一番嫌いですよ。さっさと白状なさい」
「っぁ、その、枯れてしまうのが……悲しかった、から」
その感情は、どうしても言葉にならなくて、だから一番近い感覚を伝えるしかなかった。
「っ……」
涙が、こぼれて。パッと一瞬だけ開けた視界に映ったフィニアス師は、どうしてか息を呑んで泣きそうな表情を浮かべていた。
(……なんだか、マスターの方が、痛そう)
こういうふとした瞬間の、普段は隠れて見えない部分でこそ、エルとフィニアス師はつながっているのかもしれないと思う。そう思わされるほどに、この痛みと哀しみの匂いは似すぎていて。
どれくらい時間が経ったのか、ふと息を吐き出す音が聞こえて、困ったような色を含んだ声が落とされた。
「子供ですか……いえ、まだ子供なのでしたね。時として、忘れてしまいそうになりますが」
優しい指先が頬を伝う雫をそっと拭って、不意にフィニアス師は私の額にその額を重ねた。感情の読めない冷たい青の瞳が私を促すように伏せられて、私もそっと目を閉じれば、闇の中で囁くような声が歌うように耳慣れない音を紡ぐ。
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