04 ひとつの旅立ち ⑤
「いってらっしゃい、リア……君に、神のご加護を」
それは、聞いたことのない挨拶だった。でも、意味を聞くのは『次』に会った時でいい。
背を向けて、今度は階段を駆け下りていく。一歩、下の段に降りるたびに、何かとお別れしているような気分になる。何だろう……小さい頃の自分、かもしれない。数年後、自分で振り返ったら、今の私が抱いてる覚悟なんてひどく小っぽけなものなんだと思う。それでも、いまこの瞬間の鼓動が刻んでる感情を、何一つ忘れたくはない。
最後の一段に爪先が触れて、そっと触れた扉が開いた瞬間、全身に世界の重みを感じた。それは、空を飛んでから、地上に戻ってきた時みたいな感覚で。
開け放った扉の向こう、エルが背を向けて立っていた。それから少しだけ向こうに、ロロ兄さんとナジークが。
「エル」
「……支度は、いいのか」
振り返って問いかける姿に、私はしっかりと頷いた。持っていかなくちゃいけないもの、どうしても必要なものなんて、そんなにあるわけじゃないから。エルは私の頭から爪先までを、珍しくゆったりと眺めた後、どこか眩しそうな表情を浮かべた。
「来なさい」
静かな声に呼ばれて、この静寂を壊さないように息も殺して歩み寄る。私が目の前に来ると、エルはその場に跪いて私の肩に手を置くと、黒曜石みたいに鈍く光る瞳で私を見つめた。
「お前はまだ幼い……本来ならば、このような旅に出すなど非常識だと、ライから散々に詰られるまでもなく承知の上だ。だが、そのことに関してはお前も十分に理解した上で望んだ旅だと、私は考えている。それ故に、旅立ちを許可した。ここまでは、良いだろうか」
もちろん、そのことは分かっていた。そもそもエルは、最初から私の旅立ちに賛成してくれていたワケじゃなかったから。コクコクと頷けば、エルはどこか厳しかった表情を、ほんの少しだけ緩めて言葉を続けた。
「ただ、それを踏まえた上でも、お前に忠告しておきたい。この旅で、お前は恐らく自分自身で理解している以上に、己が幼いことを知るだろう。イゾルデは、あらゆる差別と偏見の廃された、お前にとってはある種この世で最も住みよい都市だ。ただ、それはあの都市に『相応しい学者』であればこその話……到着してものの数日で、お前が今まで学んできたことの全てが付け焼き刃の知識であったことを、学問の道の険しさを思い知るだろう」
そのことも、それこそエルが言ったように理解しているつもりでいた。でも、その言葉がどこか遠い昔のことを懐かしむみたいに、実感を伴って聞こえたから。だからきっと、素直に言葉の何もかもを受け止める気になった。
「私がかつて、あの都市で学んだ時も、お前と同じ年の頃だった。それ故に、お前が辿るであろう苦難の道も、ある程度は予測がつく。ただ……かつての私とお前の決定的な違いは、既にお前には揺るがない根幹がある、と言うことだと私は思う」
「揺るがない、根幹……?」
私が首を傾げると、エルは言葉を探すように目を伏せた。こういう時のエルは、言葉に対してひどく慎重になる。今きっと、それだけ大事な話をしているのだと、痛いくらいに肌で感じた。
「守るべきもの、と言い換えるべきだろうか。己の生き方の軸となるもの、己が信念とするもの……そういった『核』となるものを、既にお前は持ち合わせているように思う。お前自身、心当たりはあるはずだ」
私はその言葉に少し考えてから、自信を持って頷いた。
「うん。私にとって大事なものは、ハッキリしてる」
それが揺らぐことは、きっとない。私の答えに、エルは柔らかく目を細めると、そっとその額を私の額に重ねて微笑んだ。
「これまでとは異なり、私も……それから共に行くフィニアスも、恐らくお前を助け、導いてやることは出来ない。あらゆることを理不尽に感じ、己の無力に打ちひしがれ、世界の悪意に膝を着く時もあるだろう。だが、いつ如何なる時も、お前の中の根幹が揺るがない限り、どんな局面も乗り越えられると私は信じている」
真剣な声に、瞳に、背筋がしゃんと伸びるのを感じた。これから先のことなんて、私には想像もつかないけれど、それこそ何があったってエルの言葉が私を支えてくれるような気がした。
「ただ」
いつもと同じ、冷たい手の平が私の頬を包む。薬草を扱うことが多いからか、少し荒れているけれど、頬を滑る指先は涙があふれそうなくらいに優しい。私を守り、育ててくれた手だ。私を、この世界からすくい上げてくれた手だ。
「お前の心が本当に壊れそうだと思ったなら、病のことも研究のことも、一度何もかも忘れて戻って来なさい。私達は、お前が傷付くことを良しとはしない。お前が途中で投げ出そうと、誰一人お前を責めはしない……だから、お前のやりたいように、存分に学んでくると良い。帰る場所は、いつでもここにある」
「っ……うん!」
もちろん、途中で諦めて戻るつもりなんてない。それでも、エルの言葉が嬉しくて、何度でも頷いた。帰る場所がある……たったそれだけの一言で、これまで外の世界に抱いていた漠然とした不安みたいなものが溶け出して、かつてユーリと夢見ていた時のワクワクが少しずつ湧き上がってくる。
そうだ、これから踏み出す世界は、エルフやドワーフが待っているワケじゃないけど、それでも触れたことのないものであふれてる。私が……私達が、この目で見たいと願った世界が、そこにある。
「大丈夫か」
「うん、ありがとう。エル」
私を気遣う瞳が、ふっと柔らかく笑ってくれた。
「……少しは、父親らしい助言をやれただろうか」
その言葉に、私は首を傾げて言葉を返した。
「エルはいつだって、私の家族でしょ?」
私の声を聞いて目を瞬かせたエルは、どこか泣いてしまいそうな表情を浮かべた。
「……そうだな」
小さな子供の頃みたいに、私の髪を優しく撫でつけると、エルは立ち上がって私の額にそっとキスを落とした。お別れの、キス。何かを祈るような、そんな触れ方で。




