01 不完全な狩人達 ⑤
《人間の世界を生きていこうと思ったら、鹿を一人で狩れるだけじゃ色々足りなすぎるよ》
私がそう言うと、ロロは少し考え込んだ後にポツリと言葉を落とした。
《何もかも足りないままでは、いけないのだろうか》
その言葉に、私はハッとして顔を挙げた。
《別段、急いで旅に出ろと言うつもりは無いが、準備が出来ていないからと言う理由で目の前にある旅立ちの理由を捨てるのだとしたら、それはあまりに愚かだと俺は思う。己の心が必要としたならば、それこそが『その時』なのではないだろうか》
言葉を失って立ち尽くす私に、兄さんはふっと雰囲気を和らげて笑って見せた。
《もっとも、半分以上はオロケウの受け売りだが。旅に出たこともない俺が知ったことか》
一瞬だけ呆気に取られてしまった私は、兄さんなりの冗談なのだと気付くと、どれだけ冗談が下手なの兄さんと思いながらも笑ってしまう。でも、励ましの心は確かに受け取ったし、それは何だか父さんからの伝言でもあるように思えた。少し眠そうな顔で、いたずらっぽく片目を開けているオロケウの姿が目に浮かぶ。
《考えてみる》
《そうしろ。森の端までは送っていくか?》
《ううん。自分の脚で帰るのも、修行の一つだと思うから》
ロロはどこか眩しそうな表情で私を見ると「ワッフッ」と控えめに吠えて私を送り出してくれた。私は彼に手を振ると、木々の隙間に覗く太陽の位置を確かめて走り出した。大きな木の葉にくるんだ鹿肉の重みが、ようやく純粋な嬉しさになって手の平から全身に広がっていく。早く『外』の父さんに……エルに見せてあげたいって思うと、森を駆け抜ける足も軽くなるような感じがする。
途中で丈夫そうな蔓草を見つけて引き抜いて、くるくると包みを背中に縛り付けてしまうと、自由になった両手を広げていつもみたいに風を感じる。こうして手をいっぱいに広げて駆けていると、いつでも空の感覚を取り戻せるような気がする。
メクトゥシに乗らないと決めてから……ユーリが死んでしまったあの日から、もう一年以上が経とうとしている。この一年で学んだことは、大切な人を失った悲しみは忘れることが出来ないということ。代わりに身に着けたのは、その喪失感と寄り添って歩くこと……まだ上手く息ができないこともあるけど。
ユーリが恋い焦がれていた空の上の景色を、風を切る感覚を、この全身が覚えている。だけど、その確かな実感はいつまで覚えていられるものなんだろう。指先の隙間から零れていってしまう水のように、いつか気付けば空の全てを忘れてしまうような気がする。その瞬間に自分が何か別のものになってしまうような、もしかしたらメクトゥシを母さんと呼ぶことすら出来なくなってしまいそうな、そんな漠然とした恐怖を時々感じている。
『君が空を忘れてしまうことはありませんよ、リア』
あの時、自分の意志で捨ててしまった空をひたすら見つめていた私に、フィニアス師はそう言った。私の考えていることを全部知っているみたいな瞳が、泉の水面みたいにきれいだったのを、良く覚えている。
『一度空を知った者は、そしてそれを失った者は永遠に焦がれ続けることになるのです。いつか風を切る感覚を、大空を舞う自由を、目も覚めるような空気の冷たさや硬質さを、何よりも美しい心震える光景を、確かに自分の記憶として思い出せなくなっても。幻の空は、世界で一番美しい空の世界が心から消えてしまうことは決してない』
フィニアス師はエルのお師匠様だけど、私にとっては一ヶ月に一回会いに来てくれるライとか、たまにしか会えないけど優しくて格好いいシアお姉ちゃんよりもずっと遠い存在だった。いつもエルとは私に分からない難しい話をしていて、優しいはずなのにどこか怖い感じがして無意識に避けてしまう、それが私にとってのフィニアス師で。
ただ、この時はじめてその人の目をはっきりと見たような気がした。今までみたいな、どこか遠い場所にいる存在でもなく、きれいで優しい言葉をくれるだけの中身のない薄っぺらな笑顔を浮かべた得体の知れない人でもなく、一人の『こころ』を持った存在として立っているのだと強く感じた。
『ずっと忘れないでいられるなら、それでいいよ』
その瞳をまっすぐに見つめて言葉を落とせば、フィニアス師は私の瞳を覗き込むようにして跪くと、秘密をささやくみたいにそっと告げた。
『……忘れることはありませんが、それは同時に呪いのようなものでもあるのです』
『どうして?』
フィニアス師は言葉を切ると、私の横に並んで空を見上げた。その視線の先には一羽のワタリガラスが舞っていて、それを見上げる瞳はひどく眩しそうに細められていた。そして、その横顔はどこか泣きそうに見えて、私はフィニアス師を見上げながら自分の胸が締めつけられるような感じがして戸惑った。
それは、どこか翼の傷付いて飛べなくなってしまった鳥が、空をこいねがうように見えたから。




