01 不完全な狩人達 ①
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01 不完全な狩人達
時は過ぎていく。そして気付けば、残酷なまでに遥か遠い場所にいた。
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時を、待っていた。
朝陽もまだ昇る前、空が白み始めて来た頃。かじかんで凍り付いてしまうのではないかと考えてしまうほどに感覚が指先から抜け落ちて行く。
ひたすら地面に伏せながら待つこの時は、途方もない孤独を感じる。自分という存在がこの森に溶け出して、消えて無くなってしまうような漠然とした不安を。それで良いのだと言われていても、この時間だけは変わらず苦手だ。
沈黙と寂しさに耐え切れず、姿勢は変えないまま手の中の弓の背を親指の腹でそっと撫でた。布を巻いた持ち手から離れた木肌は冷気を吸っているはずなのに、ひやりとした感覚よりも、かつてその木が浴びていた光の温もりを感じさせた。
小さく息を吐き出すと、さっきまでよりもずっと自分が落ち着いていることを感じた。神経を尖らせ続けていたから、疲れてしまったのかもしれない。ここは森の中……それも、私が生まれ育った場所だ。ここにいる限り、私が独りだなんてことは無いんだ。
そっと地面に耳をつけて意識を潜らせれば、そう遠くはない場所で蹄が踏み鳴らされる重々しい音が「聴こえた」
片膝をついて姿勢を低くしたまま、矢筒からそろりと矢を引き抜いて握る。こんなにも寒いはずなのに、自分の手がじっとりと汗で濡れているのを感じて、慌てて服の裾で拭いておく。早鐘を打ち始めた心臓を抑えつけながら、ただ待ち続ける時間が永遠のように感じられる。
一歩、また一歩と近付いてくる足音を聞きながら『彼』の位置を感じ取る。身を隠した藪の隙間から、待ち望んだその姿を目にした瞬間、私は思わず悲鳴をあげてしまいそうになった。慌てて口を塞いで、ぎゅっと目を閉じる。
瞼の裏に焼き付けられたのは、木の枝のような角の伸びた頭を凜と上げ、ずっしりとこちらを圧倒するような存在感。いつもは牝鹿と子連れの群ればかりを狙っていたからかもしれない。一瞬だけ覗き見た牡鹿の姿は、たった一匹だけでもぞくりと背筋が震えるくらいの圧を放っていて、あれが草食動物だなんてとても信じられない。
それでも、生きていくためには狩るしかない。子持ちの鹿の群れは確かに移動が遅いけど、たった一人で仕留めようとするには、近付いただけで誰かに気付かれてしまう。全員の気配に気を配るなんてこと、今の私には出来っこない。いつもみたいに仲間がいるワケじゃないから、囲い込みはできない。確実に仕留めたいと思うなら、一匹で行動しているのを狩るべきだ。私は今、一人なのだから。
本当に『外』に出た時、獲物を選り好みなんてしていられない。いまこの森にいる間に……私が『こども』でいられる間に、失敗するなら失敗しておくべきだ。いまこの牡鹿を仕留め損なった所で、私の生死に結びついているワケじゃないんだ。
ぐっと手を握り締め、覚悟を決めた。
心臓を狙え。一撃で仕留めろ。それが、獲物にとっても自分にとっても最善の一手だ。
言い聞かされた言葉を頭の中で繰り返し、矢を弓につがえてキリリと引き絞る。幾度となく繰り返して身体にすりこんだ動作は、呼吸をするように自然に出来た。弓矢越しに見た牡鹿はさっきよりもずっと大きく見えたけれど、それでももう恐れはなかった。
呼吸を止める。強く張った弓弦の重みに震えていた手が、ピタリと静止した。
今だ。
《フォート・ネクシア》
繋げ。その心臓に、強く強く。
そんな思いをこめて『言葉』を囁く。矢を放つ瞬間に、あの牡鹿と目が合ったような気がした。確かにその瞬間、私達は『繋がって』いた。
私の放った矢がその鹿の胸に吸い込まれて行く瞬間、無意識に繋がりかけていた感覚を慌てて引きちぎるようにして離れた。それでも心臓に矢を受けて頭をのけぞらせる姿を見つめながら、今この瞬間に鹿の感じている痛みがドスリと心臓を叩くのを感じていた。
(引きずられちゃ駄目だ)
そう、自分に言い聞かせた瞬間だった。
「キュィイイッッ」
つんざくような断末魔が響き、ドサリと灰茶色の巨体が倒れ込むのがどこか遠くの世界の出来事のようで。生々しい死の冷たさが全身に重く広がっていくのを感じながら、私はほとんど反射のように足を踏み出していた。骨の髄まで叩き込まれた、狩人としての本能のようなもの。止めを刺さなくては、と。
心臓には深々と矢が突き刺さっていた。それでもまだ鼓動は止まっていないのか、苦し気な息を荒く吐き出しながら、それは生を求めて藻掻き続けていた。私は獰猛な角に刺されてしまわないよう、距離を取って注意深く跪き、近頃はいつも狩りの後に捧げる言葉を祈るように呟いた。その行為に、どれだけの意味があるのかは分からなかったけれど、それでも。
《ヴァーレ・レティオラ・メディナ》
眠れ、尊き魂よ。
誰に教えられたのでもない、それでもそういう意味なのだと本能で知っていた。私にとって『言葉』とはそういうものだった。
腰元の鞘から、身体に染み付いた動作でナイフを振り抜くと、ひと思いに目の前の喉を切り裂いた。噴き出し零れていく命を呆然と見つめながら、今ようやく本当の意味で狩人になったのだと、そう感じた。




