00 序
果ての見えないアドラ山脈の向こうから、黒鳥の番が空を翔けて来る。青みがかった艶めく翼に、知を湛えた黒曜の瞳が瞬く。知と閃きの運び手、ワタリガラスだ。
二羽は冷たい風の吹き荒ぶ中、何かを目指して飛び続けていた。霧に視界を遮られ、細かな氷の礫がふくよかな羽を荒らすのを耐えていると、ふと視界が開けて風が変わった。突如として現れる白亜の山肌を風に乗って駆け上り、飛び出した先が安息の地であることを、ワタリガラス達は知っていた。
魔力を含んで燦めく大理石の山肌は崖の如く切り立ち、ぐるりとそれに囲まれた谷の底で、驚くほど沢山の人々が行き交っている。ただ其処には、多くの都市に見られるような活気や喧騒はなく、誰もが沈黙と礼節を守って歩き続けていた。どれも似たような白や灰や黒と言った地味で質素なローブを身にまとい、良くある派閥や権力を示すシンボルのようなものが、執拗なまでに都市の全てから排されている。
代わりに人々が手にしているのは、艶めく革に金の箔押しと色付きのインクで記された、いずれも一目で高価であろうと分かる装飾写本ばかりであった。たった一冊で農夫の人生を十回繰り返しても贖えないほど高価な書籍を、これ程までに誰もが気軽に手にしている場所など、まず間違いなく大陸中を探してもこの都市しかないと言えるだろう。
学院都市・イゾルデ
全ての叡智が集う場所。その地はおよそ学問と名の付く道を究めようとする者が、必ずや辿り着く『終着点』であった。
山肌をくり抜いた大理石を用いて建てられた、壮麗でありながらどこか無機質である建築群は、太古の昔にエルフの都を模して造られたと語られる。求道者達が次々に吸い込まれていく建物の中は、外よりも少しばかり賑やかであるが、それも自らの志す学問を巡る侃侃諤諤の議論が白熱しているのみ。
そのような静かな熱気に満ちた都市を訪れた者が顔を挙げれば、奥まった場所にありながら最も高く他とは一線を画する、大樹の枝のように優美な曲線を描きながらどこか不安定に尖塔を幾つも伸ばした城館が見えるだろう。それこそが、この大陸で最も魔法の研究が進んでいるとされる場所、魔術師協会の本部が置かれる魔法科研究棟である。
それぞれの研究棟は研究の蓄積と保全を目的として専門の図書館を備えており、この学院都市の研究生として登録する者であれば、誰でも自由に利用する事が出来る。道行く人々が誰しも気軽に高価な書籍を手にしているのは、それが理由だ。
しかしながら魔法科には、そのように一般に開放された図書館とは別に、魔導の道を究めた者だけが入室を許される図書室を何階層にも渡って有していた。最奥がどこで終わるのかを知る者さえ少ない。その門戸は固く閉ざされており、王城の宝物庫の如き厳重さで人の目によって、また代々の魔法使い達が幾重にも重ねた結界によって過剰なまでに守られていた。
そこには守られる理由を納得させられるだけの危険性を有する魔術の禁書や、それに付随する残酷な歴史、失われた古の言葉、単純に初学者が安易に触れてはならない高度な魔法陣の展開図など、魔法研究者には欠かせない環境が整えられている。
いま表向きの図書館を第一階層と数え、ある程度の魔法技能と研究実績を示した者だけが入室出来る第五階層まで潜った図書室に、静かに古びた本の頁を繰る一人の少年がいた。内容に比例して重厚かつ重々しい装丁の書物に囲まれ、大人の利用者を想定された大きい椅子に沈みこむ様子は、幼さの残る顔立ちと小柄な体格には余りに不釣り合いのように見える。ただ古書の保護のために落とされた照明の中、淡々と書を読み進める姿は一人の研究者のそれであった。
ふ、と。
やがて少年が息を吐き出し、書物の世界の底から現世へと浮かび上がってくる。目を慣らすように瞬かせた柔らかなアクアマリンの瞳が、すっと遠くを見るように細められた。その視線の先に、扉がある。次の階層へと続く扉だ。
その扉の先、第七階層まで降りた場所に、この世の総てを記したと伝えられる書物が存在した。失われた記憶。葬られた過去。知られてはならない歴史。
人はそれを『真実の書』と呼んだ。
少年は想う。それに辿り着くまでの、遠く険しい道程を。
同時に思い出す。心に刻んだ、己が真実を求める理由を。
ただ、己が天つ才を持たない事を幼くして知る少年は、また静かに書の世界へと戻って行く。しかしながら、カンテラの灯りが映り込んだ瞳には、揺るがぬ意志の光が宿っていた。
『真実の書』は待ち続けている。
時が満ちる日を。然るべき者に記憶が渡る時を。
暗く閉ざされた光の射さないその場所で、いつまでも待ち続けている。
*




