02 赤と灰の大地を超えて ②
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アリスを救った誘拐事件以降、私は近衛の騎士へと配属が変わり、アリス付きの専属騎士として働くようになった。ただ、部屋の中の警備までは女性騎士が担当しており、私は魔力の網を張り巡らせることで遠くからでも外敵を察知できるために、宮廷魔術師として普段は研究を続けることを許されるという異例の扱いを受けていた。
それもこれも公爵家の血を引いているが故なのだろうと思いつつも、素直にその立場と恩恵を享受出来るようになり、ガルシアやライナスと時折呑みに行ったり、アリスの外出や話に付き合ったりと比較的のんびりとした時間が流れた。
私は私で研究を続けて、王都における地位と人脈を築きつつあったある日、アリスが私の部屋に飛び込んで来た。
「ナサニエル、聞いた? 今度の建国記念式典に、エルフの森から使者が来るんですって!」
「ああ……近頃はレストニアの動きがきな臭いと聞く。恐らくは、近く可能性のある侵攻に備えて協約を結ぼうという両国の動きが、此度の式典で実を結ぶのだろう」
私の言葉に、あいも変わらず聡明なアリスは「この前オライオスから聞いたわ」と、外交担当の大臣の名をあげて頷いた。
「私がはしゃぐのも、ナサニエルなら分かってくれるでしょう? エルフに会うなんて初めてだもの……この先、一生あるかどうかも分からないわ。本でしか読んだことのない、遠くの森に住んでるなんて、どんな話が聞けるのかしら。失礼のないようにしないと」
そう、そわそわと瞳を輝かせる姿に「良かったな」と笑った私は、自分がどれだけこの立場に甘えていたのかを思い知ることになる。
「イグナシオ・ストラディウス様……」
エルフの国からやって来たのは、近々に次期国王となることが約束された皇太子ご一行だった。私も実物のエルフに会うのは初めてだったが、彼らは物語の中から抜け出して来たかのように、高潔で澄ました無口な存在だった。
ところが、私の心の檻も溶かしたアリスは彼らの懐にもスルリと入り込み、最初は姫の片言な古の言葉に眉を顰めていた皇太子も、帰る頃には流暢な大陸共通語でにこやかに語るようになっていた。
そうして外交的に大成功を収めることに一躍買ったアリスは、しかしそれだけではなく例の皇太子と恋に落ちていた。彼の帰り際に見せた熱っぽく、甘やかで寂し気な表情は、何故か私の胸をひどく締め付けた。
彼女自身は必死に隠しているようだったが、これだけ近くで見ていれば、彼女が初めての恋に浮かれていることは一目見て明らかだった。かの皇太子が去れば、すぐにその熱も冷めるだろうと思っていた私の目算は見事に外れ、二人は密かに伝書鳥を飛ばし合うことで、気長な文通を通じて仲を深めていった。
そんなある日のこと。
「……ナサニエル」
どこか泣きそうな表情で私の部屋を訪れたアリスに、まず私の脳裏を掠めたのは『失恋』の一語だった。手に持った手紙は震え、私にそんな願望にも似た予測を持たせるには十分なものであり。
「何があった?」
「イグナシオ様に、結婚しようと言われたの」
その時、私を襲った衝撃を言葉にすることは出来ない。二人の文通は一年近く続いていたが、エルフの皇太子が戴冠を目前に控えて、他国の姫を娶るなど考えられなかった。しかし差し出された手紙を読むに、既に親である現国王の了承も得て、例え略奪婚という形になろうとも求婚したいという話のようだった。
私は目眩を覚えながらも、この話の問題点をすぐに理解した。既にアリスはイスカーンの第二王子との婚約が決まっており、それも彼を婿に迎えて自身はそのままエルディネの王座に就くことが生まれた時から決まっている身なのであり。
「……王になる以上、他国の王の妻にはなれない」
私が呟きを落とせば、それは本人が一番に良く分かっているのだろう、アリスは沈んだ表情で項垂れた。
「陛下に、お伺いは立ててみたのか」
「実は、この手紙が来てすぐに……言ってみたの、お父様に」
なんという行動力かと目を瞬かせるも、その結果は彼女の表情を見れば明らかだった。
「とても……申し訳無さそうな表情をしてたわ。分かってる、仕方のないことだって。お父様のせいでも、ましてやこの国のせいでもないのよ。縛られてるなんて、思ったこと一度もなかったし、この国の姫に……王位継承者に生まれて良かったって、ずっと思ってた」
それが今、彼女の中で初めて揺らいでいる。否、崩れ去ろうとしているのだと、ずっと隣で見てきたからこそ痛いくらいに分かった。それだけ、彼女の皇太子に対する想いが深かったのだということも、同時に思い知らされた。
「捨てられないわ。何一つ……捨てられるわけないのに、全部を捨てて逃げ出したいの。これって凄く、罪深いことなのに……どうしたら良いの、ナサニエル」
何もかもに絶望した表情で立ち尽くすアリスに、その時ふと思ってしまった。彼女のためなら、何だって出来ると、そうあの時の想いが胸に蘇って来た。指先まで満ちたその想いに、衝き動かされるまま、私は彼女に跪いて手を差し伸べていた。
「……ナサニエル?」
「熱砂の国、花の都……誰も見たことのない白銀の森へ、アンタを連れて行く」
ハッと息を呑んだアリスが、あの日の約束を忘れていなかったことに笑みが溢れる。
それだけで、良い。それだけで、良かった。
「そう約束した。今こそ約束を果たす時だ……行こう、アリス」
私が17歳、アリスが16歳の冬のことだった。




