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塔の上の錬金術師と光の娘   作者: 雪白楽
第5章―追憶の旅路―
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01 灼熱の都へ ⑦

 

 あの時、確かに私はこう言ったはずだ。


「……名前は、ない」


 差し出された手を茫洋(ぼうよう)と見下ろして、ぼそりと答える他なかった。別に意地悪をしたつもりもなく、私は名乗るべき名を持たなかったのだ。


 スプリガルは生まれ落ちたその時から呪われた真名(まな)を持ち、私にも『ゼティア』という名があった。ただそれはみだりに他人に教えて良いものではなく、ましてや『嘆き』の意味を持つその名で彼女に呼ばれたいとも思えず。


 呼び名と言うべきものもあるにはあったが、チビだの悪魔だのを意味する口汚い言葉も、彼女に呼ばせるには不足だろうと分かっていた。こう考えると不便なものだと思うが、今まで不便だと感じるような人付き合いがなかったということなのだろうと冷静に考えていた。


「名前がないなんて、あるの?」

「下賤な民には、時折な」


 少し不満気な表情を浮かべていた彼女……アリスは、戸惑いや申し訳無さが混じり合ったような顔になり、小さく「ごめんなさい」と呟いた。


 しばらく気まずい沈黙が落ち、私が居た(たま)れなくなって身を(ひるがえ)そうとした時、彼女はパッと顔を輝かせて私を見上げた。


「そうだ、私があなたに名前をあげるわ!」


 それは幼いが故の愛らしい傲慢(ごうまん)だったと、今ならば言えるだろう。ただその時の私は、戸惑いと共に美しい彼女を見下ろすことしか出来なかった。


「……見ず知らずの人間に、名付けを許せと?」

「だからあなたのことを教えて。そしたら見ず知らずじゃなくなるし……安心して、私は人の話を聞くのが大の得意なの」


 さらりと竪琴を爪弾きながら、相変わらず他人の家の軒先へと勝手に腰掛け、隣をポンポンと笑顔で叩いて見せる彼女に、あの時の私は溜め息を吐いてみせながらも確かに微かな高揚感を覚えていた。


 他人の話を聞くのが得意と言った通り、彼女に話をするのは楽しい時間だった。私のこれまでの生涯を誰かに語ったことなど初めてで……否、最初で最後のことで。決して明るい話題など一つもない話に、彼女は柔らかく相槌(あいづち)を打ちながら真剣な瞳で聞いてくれた。


 望まれずに生まれて来たこと。泥水を(すす)って生きて来たこと。ナイフ投げの大道芸で身を立てていること。母が病に()せっていること。少し、生きるのに疲れたこと。



 それから。

「……俺は、スプリガルの血を引いている」


 そう告げた時も、彼女は表情を変えることなく静かに言葉を受け止めた。私はそれを、彼女の無知ゆえだと思った。きっと良いところのお屋敷で育てられたであろう彼女は、(ちまた)で噂されているスプリガルの恐ろしさを知らないだけなのだろうと。


「だからアンタも、きっと俺に関わらない方がいい」

「どうして?」


 その言葉に、小さな諦めや落胆と共に息を吐き出す。


「スプリガルは本能から死と破壊を求める呪われた一族だ……血と心臓に巣食う呪いからは、生涯逃れることができない」


 私はそれまで自ら進んで誰にも見せたことのなかった心臓を、彼女に見せた。黒く禍々しい、この世にあってはならない『なにか』が(うごめ)き、全身を侵食しようと胸の上に広がっている。私がスプリガルの血を引く(まご)うことなき証であり、私を一生縛り付ける鎖だった。


「俺の傍にいれば、その身に良くない何かが起こるかもしれない。だから、アンタも俺に関わらない方がいい……どうせ住む世界も違うんだ、二度と会うことも」

「嫌よ」


 きっぱりと断じる言葉に、私は息を飲んだ。目も覚めるような蒼い瞳が、貫くような熱をもって私を見つめていた。あの色彩を、あの瞬間を、きっと忘れることはないだろう。


「スプリガルの一団が、城下の村や街を襲っていることは知ってる。それで沢山の人が死んでることも、帝国の手先である彼らが大きな脅威であることも」


 目を見開いて見つめ返す私から、彼女が目を逸らすことはなかった。ただ真っすぐな瞳が、柔らかく(ほころ)んで私を見つめた。


「でも、それはあなたとは関係のないことなんでしょう? 私はあなたと出会えて良かったし、話を聞けて良かった……また会いたいとも思ってる。それはいけないこと?」

「……いけないことだろう。少なくとも、アンタの住む世界では」


 私の言葉に、アリスはその瞳を燃やして口を開いた。


「住む世界が違うなんて、そんなことない。私達は同じ国に住んで、同じ空気を吸って、生きてる。綺麗事って言われるかもしれないけど、同じ世界で生きてると私は思いたい」


 その言葉は、いま考えたと言うよりも、彼女の中に根付く信念のようなものに聞こえた。息を飲む私の手を取って、反射的に震えた手を彼女がそっと握る。


「だから、次会った時……あなたの名前を呼びたいの。受け取ってくれる?」

「……分かった」


 その声は、どうしようもなく(かす)れていて。私は剣を授けられる騎士のように、どこか厳粛な空気の中で自身に名が付けられる時を待った。


「ナサニエル」


 そっと呼ばれた名前の意味を、その時の私は知らなかった。ただ、それが自分の名だと……本来与えられるべき名だったのだと、そんな確信があった。


「意味は、愛されるもの。これからのあなたの人生が、沢山の人に愛されるものでありますように」







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