03 たどり着けない場所 ⑥
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ライとの短い旅は、本当に楽しかった。
私に対して貴族であることを隠さなくなったライは、当たり前のように転移門を使って王都までひとっ飛びし、残りの道のりは馬に揺られながら沢山のことを話してくれた。これまで旅した国の話、出会った人々のこと、きらびやかな王都とそこに潜む影、貴族の裏話なんて聞いてはいけないようなものまで。
夜はライがいつも携えている竪琴を爪弾き、陽気なおとぎ話や時には静かな叙事詩を歌って。あまりに冷たい夜には、手を取り合って温かくなるまで踊り明かした。
そんな風に彼が気づかって甘やかしてくれたのは、私が緊張しているのを見抜いていたからなのかもしれない。だって、どこかに『帰る』のなんて初めてだった。森と塔とを行き来するのとはワケが違う……この長くて短い学院生活の中で私は手紙さえ送らなかったし、エルもそうだった。そうして私は初めてエルの目が届かない場所で、自分でもはっきりと分かるくらいに決定的に変わってしまった。
(……ライが見間違えるのも、当然)
まだ幼さは残るけれど、背も髪も伸びて少しだけ頬がそげて。他人を疑って、誰かを信じて、他人を押しのけて、誰かと支え合うことを知った。きっと旅立つ前の私が見たら、誰だか分からないくらいに、私は世界に変えられた。
だからエルがどんな風に変わったのかを想像するのが怖くて、今はただ変わらないはずのあの場所で、おかえりと抱き締めて撫でて欲しかった。ただそれだけのことが、私達の出会いがどれだけの奇跡だったのかを、今なら分かる気がするから。
そんな風に、少しだけ怯えを残して足を踏み入れた早朝の村は、何一つ変わらずにシンと静まり返っていた。早くから起き出す粉屋のおかみが、私達をみとめて『朝から嫌なものを見た』とでも言うように目を背ける。くたびれた厩の戸が軋んで、遠くに仲間の遠吠えが聞こえる。そして丘の上には、あの塔が聳え立っていた。
《……俺は、先に森へ行く》
《兄さん》
ロロ兄さんは、地面に降り立った私の背中を押すように、そっと鼻面で私に触れた。
《お前も帰るべき場所があるだろう……森で待っている。行って来い》
《ありがとう》
アッフ、と小さく吠えて駆けて行く兄さんを見送る。厩に馬を繋いで戻って来たライと無言で丘を登りながら、ただエルの静かな魔力を感じていた。
ギィ、と。
静寂の中に戸の軋む音が響き、ハッとして顔をあげる。塔から出て来た黒い人影が、真白い朝焼けの中でぼんやりと浮かび上がる。
「エルっ……!」
駆け抜ける風の中で、涙が弾けて流れていく。
朝日に瞬いて細められた瞳が、やがて私をみとめて見開かれる。
「姫、様……?」
私を呼ぶはずだった唇が、別の『誰か』を呼んだ。
ただそれだけで、世界の砕け散る音が聞こえたような気がした。
「ッ、まずい……リア、離れるんだっ!」
ナイフを振り抜いたライが、強張った表情で私を突き飛ばす。抜き身の刃が銀色から虹を反射するように光り、初めてそれが魔法さえも切り裂くミスリル製であることを知った。
突き出されたナイフに悲鳴をあげそうになるけれど、それがエルに届くことはなかった。
ぐぉん――
世界の歪むような音と共に、ナイフは弾かれて柔らかな粘土みたいに曲がってしまう。そんな信じられないような光景の中で、エルが崩折れるのを見た。
「エルっ?」
思わず伸ばした指先の向こうで、エルが私を拒むようにその身を丸めた。
「違う……だが、あの時……私は何を見ていた」
「――エル、私の声が聞こえる?」
心臓を抑えて激痛に耐えるように顔を歪めたエルは、どれだけ呼びかけても応えてはくれなくて。ただ何かを探すように虚ろな瞳を彷徨わせながら、言葉の断片だけを落としていく姿はひどく痛々しかった。
「でも、鳥は届いていた……確かに……でも、そうか……」
「エル」
私の知らないエルが、ここにいる。
集まりつつある膨大な魔力の渦の中で蹲るエルは、手負いの獣みたいに荒々しい怒りと、壊れそうなほどの哀しみに満ちていた。何かに……エルに阻まれているような、そんな圧を感じながらも堪えきれずに手を伸ばす。
「リア、駄目だッ」
ライの止める声も遅く、確かに指先がその頬に届いた。
「私に、触れるな――ッ!」
見開かれた瞳を染めて行く痛みから、混沌の力が世界を貫くがごとく天まで噴き上がる。
空間を切り裂くように、黒水晶の花が、咲いた――
「エル、目を覚ましてっ……!」
その姿を覆い尽くして行く黒く禍々しい宝石に、どうにか触れようと手を伸ばすほどに侵食は早まって行く。
「リア、今は駄目だ……あいつはもう、君の知るネイトじゃない。逃げろっ!」
「嫌だ、エルが……エルがいなくなっちゃう」
駄々をこねる子供のように泣き叫びながら、どれだけエルの名前を呼んでも、私を拒むような水晶の成長は止まらない。ライに引きずられて、少しずつエルが遠ざかっていく。
「エル――!」
黒く染まり行く世界の中で、絶望の眼が私を見上げる。
その奥底には、ただ果てない後悔と……追憶の朝焼けだけが滲み、消えて行った。
第三章・完




