02 地下大空洞の試練 ㊱
目を瞬かせたシエロは、憑き物が落ちたような表情で確かめるように頬をさすった。
「ごめん……なんだか、自分が自分じゃないみたいで。あの声を……『真実の書』の言葉を聞いたら、あれの何もかもが正しいんだって気にさせられて。得体の知れないものが相手なんだから、警戒しないとってアレだけ思ってたのに」
基本的に私よりもずっと用心深いシエロが、あんな風に盲信的になってしまう光景を見せつけられた後では、ますます『真実の書』が便利なだけの代物ではないと尻込みするのに十分な理由があった。
「結局、対価に求められた『真実』って何だったんだろう……」
「僕にもそれは分からなかった。何かを失ったような感じはないし……最初に生まれを聞かれて、なんて言うか『読み取られた』ような気がするけど、それが差し出すべき『真実』かって言われると違う気もする」
私とシエロは腕組みをして、それぞれに頭を巡らせた。危険かもしれないことは、分かっていた。何を失うことになるのかは分からない……それでも。
「……得られるものは、確かにあったよ。お前が引き戻してくれなきゃ、危なかったかもしれないけど。ちゃんと証拠を集めて裏付けを取れば、危険を冒して手を伸ばして良かったと思えるだけの成果はあった。でも……後はお前が、選ぶことだから」
「うん、私も決めたよ」
頷いて、そっとシエロの手を握る。
「叩いて、ごめんね」
「……いや。お前があんな風になったら、僕も引っ叩いて連れ戻すから」
優しく、それでいて力強く握り返された手をスルリと解いて、隣に立つシエロの気配に励まされながら『真実の書』へと手を伸ばす。
《代償を》《代償を》《代償を》
不意に押し寄せて来た息が詰まりそうな圧の中で、再び厳然とした声が響く。
《選べ――時か、真実か》
こちらを試すかのように、無理やり心へと押し入ってくる意識に決然と前を向いた。
「時を」
隣に立つシエロの、ハッと息を呑む声が聴こえた。自分が危険な賭けをしようとしていることは分かっていて、それなのに『私はこちらを選ぶべきだ』と、どうしてか知っていた。
《――聞き届けた》
その声を最後に、何かとてつもなく大きなものが襲って来る気配がして、眠りに落ちるように世界が遠のいて行く。
(シエ、ロ……)
無意識に伸ばした手は届かないまま、闇の中で水のような手触りが指先から伝わっていくのを感じた。反射的に息を止めるも、奇妙な浮遊感の中でこちらを安心させるかのように、柔らかな感触が頬を撫でる。
こわごわと息を吸い込みながら、不思議とぼんやり光っている空間の中を、水底へと降りて行くみたいに泳いで渡る。そこには白紙の頁のまま沈黙している書が無造作に置かれていて、他の意志や気配が一切排除された世界に首を傾げた。
(……シエロも、ここに来たのかな)
とてもそんな時間がかかっていたようには見えなかったけれど、これも書の持つ魔法か結界の力なのかもしれないと、今一度『真実の書』に手を伸ばす。
《問う――真実を求める者よ。汝は何者か》
その問いに、思わず黙り込んでしまう。私が何者なのかを言葉で説明するのは、ひどく難しいことのように思えた。こんな時、普通だったら迷わず応えることが出来るのかなと、そんなことを思いながら取りあえず名前を答えておくことにする。
「私はリア……レイリアです」
暫しの沈黙の後に、密やかなさざめきが波のように押し寄せては退いていく。
《否》《否》《否》
ただ名前を告げただけなのに、矢継ぎ早の否定が落とされて思わず目をみはる。私が言葉を失ったまま立ち尽くしていると、物も言わずに『真実の書』が捲られて、どんな法則があるのかとある頁でピタリと動きを止めた。
じわりと零れたインクが広がるように滲み出した文字が、やがてフワリと書の紙面から離れて私の眼前へと差し出される。それは先の朽ち果てた都市で目にした、私には読めない文字で書かれていたのに、どうしてか何が書かれているのか分かっていた。
《ライザンドゥーラが主、ストラディウスの系譜――深き森のゴドウィンがイシュタルとメネスを成し、二人はイントリウムを、イントリウムはアスランを、アスランはイダを成し……》
ひたすらに紡がれるのは恐らく人の名前だと分かるのに、一つとして聞いたことのある名前が出て来ない。それが後から後から書から吐き出されるようにして文字となり、ぐるぐると周囲を巡る人名の羅列に気が遠くなりかけた頃、ようやく見えた結びの言葉に呼吸が止まった。
《カストルはイグナシオを成し、イグナシオは祝福されし水の娘であるアリステアと結ばれた。アリステアはエルディネの系譜、ヴァイスヘルムの娘である》
近頃どこかで聞いた名前だと、記憶の棘に引っかかったそれを思い出すのに時間はかからなかった。シエロが話していた、いなくなってしまった『アリステア姉様』のことだと、全身を駆け抜ける衝撃も冷めやらないうちに次の言葉が落とされる。
《二人はカナンとナディアを成した》
カナンは『楔』、そしてナ・ディアは『共に歩む』だと、問われてもいないのに古の言葉の意味を口の中で呟いていた。耳の奥に不思議と馴染みがある名前に、どうしてか涙が零れそうになる。この名前をつけた人達は、きっと我が子のことを大事に思っていたのだと、ざわめく心を抱えて拳を握った。
《ナディア・イム・エルディネ・ストラディウス》
もはや認めるしかないと、分かっていた。聞いたこともない名前のはずなのに、その言葉が自分を指しているのだと言われるまでもなく全身が理解していた。
おかえり、と――そんな声が聴こえた気がして。
《それが汝の真実だ》




