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塔の上の錬金術師と光の娘   作者: 雪白楽
第4章―真実の書― 地下迷宮篇
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02 地下大空洞の試練 ⑧


 *


「ロ……シエロ、起きて」


 見張りの交代からどれだけ経ったのか、浅い眠りのつもりが疲れていたのか、意識が浮上するまでに幾ばくかの時間がかかった。それでも僕を呼ぶリアの声に、珍しく滲んだ焦燥の色と、辺りに漂うピンと張り詰めた気配に本能が警鐘を鳴らす。


「……何が起きてる」

「私にも分からない。でも、多分狙われてる……群れじゃなくて、一つの強大な力が近付いてる気配がする」


 低い囁きを返しながら、リアは既に(うず)み火となりかけていた焚き火の跡を踏み消した。外の世界は夜が白み始めているのか先も見えない闇は薄れ、代わりに冷たい薄靄(うすもや)が立ち込めていた。


 僕達は素早く視線を交わすと、出立前に示し合わせていた通りに荷物を身体へ括り付け、静かに立ち上がって野営地を後にした。原始的な闇への恐怖よりも、虫の音一つ聞こえない静寂と、見通しの悪い視界の中に感じる突き刺すような敵意に息が上がる。



 パキリ、と。


「っ――」


 背筋が、凍った。


 足元に砕けた小枝を認める間もなく、震える僕の手をリアの熱い指先が捉えた。ぐい、と信じられないような馬鹿力に引かれるまま、振り返らずに走った。


 立ち止まれば死ぬと、本能が知っていた。


「シエロッ――!」


 悲鳴のような短い叫びと共に、視界が反転する。地面に叩きつけられる衝撃に、呼吸が肺から叩き出されて見開いた目を、(かす)めるようにして鋭利な刃が(ひらめ)き過ぎた。


《グルルゥルウウァアアアアッ!》


 大気を、大地を震わせるような咆哮に、ようやく刃だと思ったものが獣の爪先であったことを知る。そうして、まだ僕が生きていることを。


 闇で塗り潰されたような漆黒の体表が、ぐわりと波打つように盛り上がり、(あか)く濁る瞳が標的を捉えるかのようにこちらを()めつける。


(死にたく、ない)


 今この瞬間、死を恐れる自分に……生きたいという意志がまだ残っていたことを知り、どうしてか笑ってしまいそうになる。僕はまだ、生きていたかったのだと。


「走ってっ!」


 僕を突き飛ばして命を拾ってくれたリアが、見たこともないような厳しい表情で叫ぶ。僕は自分のどこにそんな力があったのかと思うくらい、(はじ)かれるようにして駆け出した。


 あれは、いったい何なのか。熊……グリズリーのように見えるけど、異様なほどに図体がデカくて爪が長い。お陰で動きは少なくとも、僕の足でもギリギリ追いつかれない程度に抑えられているみたいで、それでも地響きのような足音は刻一刻と背後に迫っている。


「っ……あれっ、お前にもどうにかなんないのっ?」

「さっきから、色々と試してるけど駄目みたい。この子が言うには、気が立って誰の声も届かないって」


 僕に歩調を合わせるように淡々と駆けながら、リアが彼女の髪に止まる一羽の蝶を指し示す。そっちじゃないと、話に茶々を入れる呼吸も惜しい。


 まさか対話を試みてるとは思わなかったけれど、彼女らしいとも思う。僕は極大魔法一発でどうにかならないのかと思っていたけれど、森に修復不可能な被害を与えるリスクを考えれば、彼女がその選択肢を取ることは無いのだろう。


「っ、はぁ……普通の魔法とか、弓矢とかで、太刀打ち出来ないわけっ」

「出来ないこともないけど、あの子は多分かなりの魔力を吸ってる。体表が硬すぎて生半可な刃じゃ通らないし、魔法も相当連発しないと……」


 そして森のような見通しの悪い場所で魔法を連発するような乱戦は、味方に当たりやすく危険であることを、僕達は嫌と言うほど学院の講義で学ばされていた……どうすれば、どこならば活路が開けるのかと途方に暮れた瞬間、ふとリアの向こうに立ち現れた存在に呼吸が止まった。



 淡い銀色の光が、まだ明けやらぬ森の中を駆けて行く。


《キュィイインッ……》


 ふと耳慣れない鳴き声が響き、リアがハッとしたように肩を震わせた。白銀に輝く美しい獣が、闇に追い立てられるようにして地面を蹴る。


「どうして、こんな森の浅いところに……っ」


 その存在に気を取られたようだったリアが、ふと息を呑んで僕の腕を引いた。反射的に足を止め、背後に迫る死の足音を聞きながら、目の前に広がる光景に立ち尽くす。


(……道が、無い)


 既に森の中を、どうやって進んで来たのかも分からなくなっていた。そして僕達が事前にまとめた地図の中に、こんな行き止まりは存在しなかった。それでも今、確かに僕達に残された唯一の逃げ道は途絶え、ただただ断崖絶壁が広がっていた。


 (たけ)り狂う赤目のグリズリーも、獲物を追い詰めたことを知ったのかジリジリと甚振(いたぶ)るようににじり寄って来る。この状況に焦ることもなく息を吸い込んだリアは、流れるような動作で弓に矢をつがえて引き絞った。


 局地的な静寂の中に、全てを焼き尽くす青炎(せいえん)が上がる。肌を焦がすような闘気で、燃え盛る矢尻を獣へと定めたリアに、彼女の意図を理解し僕もまた『言葉』を紡ぐ。


《ファルガス・ディアーレ・ウェスティジオ・ナ・キケロ》


 (いかづち)よ、円環の軌跡を描け――


 素早く三方に陣を敷き、僕の指先で急速に高まる魔力の気配を嗅ぎ取り、獣がぐわりと全身を波打たせてこちらへと突進する。


 かつての僕なら、ここで怯み魔法の発動は止まっていただろう。それでも今は、護るべきものが……言葉もなく、僕を信じて立つ背中があるから。


《ピアッシモ……!》


 鋭く叫び、獣の足先に過たず攻撃が着弾する。どのみち歩みは止まらないだろうけれど、それで良い。


《グルァアアアアッ!》


(さあ、跳べ――)


 痛みに苦悶のあげ、怒りに唸りながら勢い良く獣が跳躍する。


「シエロ!」

「分かって、るっ」


 それと交錯するかのように前へと飛び込みながら、リアが極限まで溜めた魔力と共に矢を放つ姿が見えた。


《ガギャァァアアァ――ッ!》


 心の臓へと矢を受けた獣が、それでも着地した崖の突端で藻掻(もが)くように踏み止まる。すっと指先をあげたリアは、ひたりとその的を指して静かに告げた。


《リベル》


 鈍い音を立てて弾けた血肉に、今度こそ獣は声も無く谷底へと落ちて行く……僕達の立つ地面を、道連れに。


「なっ――」


 どんっ、と。


 力強く胸元を突き飛ばされて、目を見開く。


「シエロ」


 その唇が、何を紡いだのかは(つい)ぞ分からなかった。


 伸ばした指先が空を掻き、急速に遠ざかって行く姿が静かに瞳を閉じる。


「ふざ、けるなっ……!」


 全身の血が沸騰するような感覚に、思考の片隅でどこか冷静な自分が引き留めているのも分かっていた。馬鹿なことを、しようとしていると。


 それでも、もう二度と。


「離すかよッ――!」


 空を、翔ける……指先は、今度こそ彼女を捉えた。




 墜ちて行く、どこまでも。この果てない、闇の底まで――




 *








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