02 地下大空洞の試練 ④
*
「ッ……ハァ……」
息が、荒い。
どうにかして抑えなければと思うのに、意識するほどに動悸が襲い来る。
これでは相手に聴こえてしまうと、袖口を噛んで息を殺した瞬間だった。
「っ――」
踏み出した足元が滑り、微かながらも水音が響く。ゆるやかに流れ行く小川の中に、異質な波紋が広がり……そして、獣は気配を掴んだ。
《ピィイイイッ!》
高い警戒音と共に、小さな獣たちが濃い緑に染まった毛を逆立て、群れをなして川の上流へと逃げ去って行く。
思わず立ち尽くし、指示を仰ぐようにリアを見やれば、彼女は灌木の向こうから一点を指差した。見れば逃げ遅れた一体が、必死に仲間の後を追っている。
(囲い込め、か)
事前に決めておいた符号を彼女の手から読み取り、僕はわざと音を立てて飛び出し、それを追い立てた。どことなく犬のような鼻面に、きらきらと小さな黒い瞳が覗く獣は、水掻きをばしゃりと振り上げて長い牙を剝いた。
どすり、と。
背筋の凍るような風切り音と共に、次の瞬間には鋭い矢が獣の脳天を正確無比に射抜いていた。
《ピィっ》
何が起きたのか分からない、と言う表情で……とさりと倒れたソレを抱き上げれば、既に絶命していた。少しずつ魂が抜けて行くように息は吐き出され、きらめく瞳からは光が失われる。まだ生きているかのような熱を持っているのに、命を落とした獣は死の間際に威嚇してみせた姿と比べれば、ひどく小さいものに映った。
それでも水を含んだ小さな体躯は、ずっしりと重かった。
「……シエロ?」
僕の顔色を窺うように、それでいて不思議そうな表情を浮かべているリアに、これまでずっと正体がつかめなかった……それでも確かに存在を感じてた、彼女と僕の間に横たわる『何か』を、初めて理解したような気がした。
「別に、何でもないけど……この後、どうすればいいの」
「血抜きしないと。きれいな水辺があって良かった」
僕の手から獲物を受け取ったリアは、腰元に挿していたナイフを抜くと、迷いのない手付きで獣の頸動脈に突き立てた。細く止めどなく流れては川面を赤く染める雫も、思っていたよりすぐに消えて無くなってしまう。
そのまま川の中で毛皮や手足を洗い、ナイフ一本で鮮やかな手並みを見せ、淡々と解体を進めて行くリアの横顔は、いつもと変わらない彼女であるはずなのに狩人の目をしていた。獲物を追う、鋭く獰猛な瞳。弓を引き絞る瞬間の、静かな熱。敬意すら感じる丁寧な手付きながらも、ごく自然体に凪いだ表情。
ここは、彼女の生きる世界なのだと知る。
「と、こんな感じ……どう?」
色々と解説を添えながら獲物を捌き切った後に残されたのは、一塊の肉と毛皮と小さな骨の山だけだった。正直に言えば、解説など一言も耳には残らなかったし、まだ血にあてられたような熱と震えが全身を巡っているのを感じていた。
こんなにも小さな獲物でこれなのだから、これよりも大きな鹿や猪……ましてや、人など殺したら、と。
(……今は、関係ない)
心を揺らがせる全てを頭から振り払い、彼女が見せた手腕を脳裏に浮かべる。説明は聞いていなかったが、手順は全て頭に入っていた。それでも一朝一夕に、彼女がやってみせたような自由自在なナイフの扱いが出来るとは、とても思えなかった。
「お前なら、どこに行っても生きていけそうだと思ったけど」
「どこに行っても、って……ふふ、変なの」
リアはおかしそうに笑いながら、一切れの肉をちぎり取った大振りな葉に包み、パチリと指を鳴らして簡易な冷却魔法をかけた。そうして食材を整え、同時に野営の準備を進めながら、彼女はふと真剣な表情で呟きを落とした。
「今の私が自由に生きられるのは、森の中だけだから……多分、街中に放り出されたら三日ともたないよ。イゾルデに来て、そう思った。だから、もっと頑張らないと」
「頑張るって、何を」
思わず問い返せば、リアは目をぱちくりと瞬かせて、少し考え込むような顔を見せた。
「うーん……もっと、上手に生きられるように、かな?」
その答えが、どうしてか面白くなくて眉を顰めた自分に気付く。僕が黙れば、彼女も黙った。外の世界では、いつもおしゃべりな小鳥みたく話しかけて来るくせに、森の中に入った彼女はどこまでも静かだった。
足音も、呼吸も、心臓の鼓動さえも。何もかもが、世界に溶け込んでいて。まるで言葉なんて必要ない在り方で、ずっと生きてきたみたいに。
「……別に、そのままで良いんじゃないの」
ぼそり、と。
気付けば口から、そんな言葉がこぼれていた。
「うん?」
すっとぼけたリスみたいに首を傾げながら、手際よく焚き火を熾す姿はどこまでも不釣り合いで。だからこそ、なのかもしれない。
森で眠り、生きる彼女が、どこまでも自由に見えたから。
「人間なんて、良いところなんか大して無いんだし……確かにお前は色々と変で、常識無いけど。無理して誰かに合わせなくても、堂々としてれば良いんじゃないの」
ハッとしたように顔をあげたリアは、こぼれそうなほどに目を見開いていた。その新緑の瞳が、僕の言葉を噛み締めるように瞬いて……そして、輝くような笑みを浮かべた。
「ありがと、シエロ」
どくり、と。
こいつの、こんな顔を見る度に、心臓の奥が掴まれたみたいに痛くなる。
何か忘れてはいけない、大事な思い出の中にいるみたいに、どこか懐かしくて温かい。
(……ほんっと、タチが悪い)
名前をつけようもない、関係のまま……こんな場所まで来てしまった。ささやかな陽光すらも薄れ、闇色に染まり始めた天蓋に、柔らかなヒカリゴケが淡く辺りを照らす。
地下大空洞。
その底知れない未知へと足を踏み入れ、三日目の夜を迎えようとしていた。




