01 戦火を知らぬ眼 ⑯
「マスター・フィニアス……?」
こんな狙い済ましたかのような時に現れるとは思ってもみなかった姿に、思わず目を見開いて師の名前を呼べば、彼はあの柔らかいようでいて酷薄な瞳で僕を見据えた。
「他の誰に見えるとでも?」
ああ、この顔だと。
僕の存在に敬遠するでも、嘲笑するでもなく、ただ心底「どうでも良い」と言う顔で歩き去って行く。そのくせ、エルディネの民を見つめる表情は穏やかで、国の危機とあらばぶつくさ言いながらも、その比類ない魔法を振るって何も恐れることなく前線に立つ。
そのちぐはぐでありながら、どこまでもブレない己を持っていて、そして常に誰よりも強く在る存在のことを物心ついた頃からずっと知りたかった。どうすれば、その「強さ」が手に入るのか。どれだけ声をあげれば、その背中は振り向いてくれるのかと。
(躍起になってた時もあったけど……今なら分かる)
きっと、マスター・フィニアスが後ろを振り返ることは決してない。それでも彼の弟子になりたいと望むなら、覚悟の上で背中を追いかけ続ける他にないのだと。
「よぅ、相変わらず派手な登場だな……特にリアの方だが」
「……随分と、私の弟子に対して馴れ馴れしいようですが」
がしがしと頭を掻きながら現れ、ぽんとリアの頭に手を置いた『門番』もとい学院長に、マスター・フィニアスが冷たい視線を浴びせかける。そう言えば、リアと彼が揃う場面を見るのは初めてかとボンヤリ思いながら、彼女のことはやはり弟子と呼ぶのかと喉が詰まる。
「いや、馴れ馴れしいのはアンタの弟子の方だっつの……近道覚えたからって、喜び勇んで入り浸りやがって。この俺の所まで、わざわざ茶飲みに落ちて来る恐れ知らずなんて、こいつくらいのもんだぞ」
その話は僕も初耳で、いつの間に学院長に餌付けされていたんだとリアを見やれば、彼女は珍しく黙ったまま立ち尽くしていた。僕の視線からリアの様子に気付いたのか、マスター・フィニアスが彼女の方を向いて、どこか複雑な表情で口を開いた。
「……第七階位の試練と聞いて、出立の前に顔を見ておこうと立ち寄ったのですが……君には不要な心配だったでしょうか」
どこか皮肉と言うにも遠慮がちな口調に、この人でも言葉に困ることがあるのかと目を見開く。立ち尽くしていたリアは、どこか茫洋とした表情のままマスターに歩み寄ると、彼の顔に向かってそろそろと手を伸ばした。
目を見開いたマスターが引き寄せられるように腰を屈めると、リアは彼の顔にペタペタと触れて、呆然とした表情で一言呟きを落とした。
「フィニアス師……?」
「……ええ、私です」
「怪我、は」
たった一言。それだけで何かを察したのか、マスター・フィニアスは細く息を吐き出した。
「聞いたのですね。いえ……君ならば、私の魔力も感じ取ったことでしょう。君に戦を教えなかったのは私の手落ちですが……有象無象に刺される程、耄碌した覚えはありませんよ」
いつも以上に回りくどい言い回しの師を、リアは迷い子のような表情で見上げていた。その瞳に耐えかねたかのように、師は目を閉じて囁くような声で告げた。
「ただいま、戻りました……レイリア」
その瞬間、ゆるゆると揺れていた深緑の瞳から、柔らかな雨のように涙がこぼれた。
「っ……おかえり、フィニアス……ッ」
なりふり構わずギュウギュウと抱きついたリアに、マスター・フィニアスは戸惑うようにいつもは酷薄な白銀の瞳を揺らして、やがて観念したかのように小さな背中を抱き締め返した。どこまでも不器用に、人間らしく震える手の平で、そっと。
ああ、そうか、と。
「……少し、背が伸びて痩せたのですね」
「……はい」
「良い師に、出会えたのですね」
「はい……!」
儀杖に目を落として柔らかな表情で告げる彼と、泣きながら嬉しそうに笑うリアに、ようやく彼らが師弟と呼び合いながらも、リアが直属の師にマスター・リカルドを選んだ理由が分かった気がした。二人は師弟であるには、近過ぎたのだと。
ただ他に呼び合うべき言葉がなくて、不器用に寄り添っているだけの……縋り付くように抱き締め合う二人の間に横たわる情は、どこまでも『家族』のものだった。
(僕は、これに『嫉妬』していたのか)
そう思うと、馬鹿なことをしたと苦笑がこみ上げて来る。ずっと心の底にかかっていた霧が晴れたような気で、いつしか穏やかに二人を見つめている僕がいた。師にも、こんな風に穏やかな表情を浮かべる居場所があったのだと。ただ冷たく孤独な時間を歩んで来た訳ではないのだと、どうしてかそれが嬉しかった。
それにしても、リアの存在に絆されている大人の面子が凄まじいのは気の所為ではない。僕の知り得るだけでも、マスター・フィニアスにマスター・リカルド、それから学院長と彼女が『ライ』と呼ぶブラッドフォード家の倅。考えるべきことではないけれど、どう考えても戦力過多な顔触れで、彼らだけでも世界を何度か滅ぼせるのではないかとすら思う。
(……リアだけは、敵に回さないようにしよう)
そう心に誓い……ふと横を見やれば、ちょうど視線の合った学院長がバチリと片目をつぶって見せた。明らかに不要な気遣いに顔を顰めるも、彼は素知らぬ顔で目の前に繰り広げられる二人の世界へと割り入って行く。
「いやぁ、良いもの見せてもらったって言うか……フィニアスが息せき切って俺を訪ねて来るなんて、一生ものの経験だな。あれは」
命知らずなことに、バンバンとマスター・フィニアスの背中を叩いた学院長は、向けられた絶対零度の視線も物ともせず、パッと真面目な顔になって口を開いた。
「ここまで来たってことは、聞くまでもないんだろうが……覚悟は出来たな?」
僕とリアの双方を見やりながら告げられた言葉に、僕達は反射的に姿勢を正して頷きを返していた。
「よし……それでは、第七階位の試練開始を宣言する」
ひらりと手を掲げた学院長の魔力に呼応するかのごとく、石壁が生き物のように蠢いて奥に潜む鋼鉄の扉を顕にする。彼がじゃらりと取り出した鍵束の中から、ドラゴンの吐き出す炎のような意匠があしらわれた重厚な黒鉄の鍵を鍵穴に挿し込むと、侵入者を阻むように扉を覆っていた蔓草紋様と鉄格子が、緩やかに配置を変えてやがて止まった。
緊張に唾を飲み込む内心を知ってか知らずか、マスター・フィニアスが珍しく僕を正面から見据えた。気付けば口を開いていて、それでも何を言えば良いか分からなくて。
「……必ず、戻ります」
「精々、生きて戻りなさい……私の馬鹿弟子」
その言葉に、全身の血液が、指先まで満ちた魔力が喜びに熱を帯びる。
「言質は取りましたよ、師匠」
「生意気な口一つ叩けないほど扱いてさしあげますよ」
ついと目線を逸らして嘯くマスターに、僕は心からの笑みを浮かべて頷いた。
「おーい、お前さんも隠れてないで出て来いよ。最後なんだからな」
学院長が誰も居ない空間に向かって声をかければ、何もないと思われた壁に扉が現れ、深々とした溜め息と共にマスター・リカルドが姿を現す。
「全く、せっかく見送りに来たってのに素直じゃないヤツ。ほら、お前も愛弟子に何か言うことはないのかよ」
「……私は既に、伝えるべきことは伝えた。行け、リア」
パッと笑顔を弾けさせたリアは、力強く頷いた。
「はい、マスター」
「それから、シエロ……道中はコレの手綱を握って離すな」
コレ呼ばわりされた弟子が何も気にせずニコニコしているのを見て、僕はマスターの苦労を思いながら頷いた。
僕の視線に気付いたリアが、何の躊躇いもなく手を差し出す。
「行こ、シエロ」
「ああ」
その手をそっと握って、僕達は黒鉄の扉へと手を掛けた。
そして踏み出す。二度と戻れない試練の旅路へ――
*
「……行ったか」
誰のものとも知れない、囁くような声が沈黙を破る。残された男達は、それぞれに旅立った二人の若き魔法使いのことを想い、言葉もなく目を伏せた。
「私は、もう行かなければ。後のことは頼みます」
「おうよ、任された……忙しいところ、呼びつけて悪かったな」
その言葉に、男は長い銀髪を揺らめかせながら己の手を見つめた。
「いえ、連絡に感謝します」
そう呟いて身を翻した男は、何かに引き留められたかのように立ち止まる。
「アズレア……私が告げるべきことではないのかもしれませんが、それでも貴方に礼を言わせて下さい。あの子を見出してくれて、ありがとうございました」
それだけを早口に告げて、返答を待つことなく男はその場を立ち去った。
ガチャリ、と。
迷いない音で扉が閉まり、足早に気配が去る音を聞きながら、再び残された男達は浅い息を吐いた。
「……どこまでも、勝手な男だ」
「それでも、アイツは変わったよ。多分、良い方向に……アズレア、お前もな」
アズレア・リカルドは、弟子を見送った時には見せなかった仄暗い闇を瞳の奥に湛え、何もかもを記憶の底へと封じるように目を伏せた。
「あの時、私は幼く愚かだった。それだけだ」
失った過去への贖罪に生きる背中に、赤髪の男は触れようと指先を伸ばして、止めた。
「……どうか」
祈るように落とされた言葉が、扉の先へと届くことはない。
*




